【 孫呉の歴史的意義 】
- 三国時代で歴史的に見て中心になる国はどこでしょう?呉や蜀のファンには不満も残るかもしれませんが魏です。
- 国家としての制度を見てみましょう。三国時代に考案された九品官人法(人材の推薦制度)は魏の陳羣が成立させたもので,呉・蜀はそれに準じた制度があるだけです。いわば魏のマネっ子をしているわけですね。政治的な制度では呉・蜀には特に見るべきものはほとんどないのです。
- 対外的にも魏は魏史倭人伝に見るように周辺諸国との交流があるのに対して,呉や蜀にはそう言った外への影響力は極めて微小です。孫権は亶州(日本)を探しに行かせたりしてますが大失敗してます。倭人(日本人)の方から交流を求められる魏と自分から探しに行って大失敗してしまう孫権・・・・。この差は一体何なんでしょう(T^T)。
- さらに文化面では自らが優れた文化人であり新しい詩文の文化を作った曹操・曹丕に対して,孫権・劉備には文化のブの字も見当たりません。武の字はあるかもしれませんが^^;。張昭の家に火を放つ孫権にそれに焚き付けられてさらに内側から土塁を作ってしまう張昭・・・こいつらに文化を望むほうが無茶であります^^;。(ただし諸葛亮の出師の表は歴史的評価は高い)以上のことから三国時代の最大の政治家は曹操・曹丕であり,それに追随するはずの劉備や孫権の歴史的意義というのは大きく離されます。
- ではそれを踏まえた上で呉・蜀の歴史的意義とはなんでしょう?
- 蜀はその成立自体が反魏・漢王朝の正統を受け継ぐという大儀名分になっています。その大儀名分が建国の意義になっており,そのために諸葛亮は無茶な北伐を何度も行わなくてはならなかったとも言えます(その北伐が出師の表という文化的な遺産を産むわけですね)。皮肉なことに蜀の衰退の一因であるはずの北伐自体が蜀の存在意義であり,そのことが文化的な価値まで生み出したとも言えます。
- では呉は?呉の孫権は漢王朝を受け継いだわけではありませんし,表面的にしろ魏に臣従していた時期すらあるわけですから反魏というわけでもない。ですから建国自体には意義はないと言えます。『おりょ?曹丕も劉備も皇帝になったんならワシもなっていいんじゃねーの?』てなノリで国作ったとも言える^^;。文化面でも酒飲んでやっちゃえやっちゃえ系軍団の孫権政権に文学を望むべくもない^^;。それじゃー呉が後世に残した意義ってなんなんでしょう?
- それは恐らく政治的な制度や文化的遺産ではなく経済的な観点からの意義です。呉書を紐解くと山越という異民族との争いが実に多いことが分かります。それに孫策の江東制覇の時期にも妙な宗教団体が各地に乱立していたことが読めますし(実は仏教もこの頃に入ってきてます),呉の支配地域というのは中華の文化圏からまだまだ独立した蛮地だったとも言えます。蜀も確かに辺境ですが益州というのは実は劉邦の時代から流刑に使われていますし,漢中も中国にとって大事な地域です。益州南部は確かに蛮地でしたが北部は中華の文化圏だったと言えるでしょう。
- 孫権はその中華の文化圏外の地域に積極的に勢力を伸ばし,呉にとって有益な土地になるように開発をし,それらを中国の版図に入れていったわけです。そのことが後の南北王朝の対立が可能となる基盤を作ったのです。南朝の歴史の一番始めに呉が数えられるのは決して間違えではなく,呉こそが南朝の基盤を作った歴史的な意義を持つ最初の国だと言える・・・・のではないでしょうか? ▲