【 河童伝説と孫呉の人々 】
- 熊本県八代市に河童共和国というのがあるのをご存じだろうか?数年前にちょっと話題になったので覚えている人も多いかもしれない。実は熊本は河童伝説の宝庫である。日本の河童伝説の約3割が熊本に集中しているらしい。
- その八代市に、こういう伝説がある。【九千坊という文武に優れた指導者の率いる河童が、来航し、八代に上陸した。】そして、もう一つ。【オレオレデライタ】という謎の言葉が、八代の古老たちが伝えてきている・・・という。河童共和国はその河童伝説を元にして、作られているのである。
- オレオレデライタという言葉は、地元の人々にも何かのお囃子か呪文くらいにしか思われておらず、テレビで報道された河童特集でも、キリスト教徒が弾圧を逃れるために、聖書の一文を呪文風に変えたのだとか、なまってこうなったとか、色々な説が言われていた。しかし、一説によると、この【オレオレデライタ】という言葉を中国語に変換すると【呉人呉人的来多】になると言うのである。
- つまり、八代の河童伝説を、この言葉を併せて考えると、九千坊は呉からの来航者で、河童は元々、呉の者たちが元祖である・・・・ということになるのである。もちろん、これは民間伝承を元にした、挿話である。が、呉書孫権伝の中に見られる「亶州(日本)の住民が会稽郡にやって来て商いをしたり,会稽郡東部に住む者が漂流してタン州に流れ着く事があった。」という記述と、長江下流から季節風に乗って流れていくと、九州地方に流れ着くという事からも、当時から呉の人と九州地方のクニと交流があったと考える事はできる。孫権の日本探しも、全く可能性がない事なら行われなかったと考えるべきだろう。ある程度、孫権には東方に倭人が住む島がある事が分っていて、それなりの情報を得ていたはずである。
- さらに、当時の日本の神話を紐解くと、呉と狗奴国との関係や、呉滅亡時の呉人の来航など、なかなか面白い考察が多い。中には、呉の鏡(赤鳥年間に作られた紀年鏡)が日本の古墳から発見されたなどという話もある。武帝があれほど評判悪い孫晧を処罰せずに侯に封じた背景として、呉の住民の逃亡(倭国や夷州への逃亡)を最小限に済ませるためという事もありえるのである。
- 呉人の来航を示す資料として「新撰姓氏録」という物もある。これは初期の帰化人たちの、元の先祖を表す物で、あまり信憑性自体はないのだが、呉の末裔として、牟佐村主・蜂田薬師・茨田勝などが挙げられている。だが、彼らと孫呉を直接結びつけるのは、いささか暴論に近いらしく、呉という言葉は、孫呉政権ではなく長江流域そのもの、つまり中国南方の地域を指しているという事は無視できないようである。(呉服・呉音などの言葉も孫呉そのものからやって来たという意味ではなく、中国南方の揚州あたりの服や言葉という意味らしい。)
- いずれにしても、神話の領域は出ておらず、確証のある史学の根拠にはなり得ないだろう。だが、遼東との交易など、海洋国家としての側面を持つ孫呉が、その海洋技術を活かして日本にいくつかの影響を残したという可能性はあり得るだろう。いや、そう思った方が面白い^^;。呉者としては。 ▲
- (注)オレオレデライタに関しては、すいぶんといい加減な事を書いている(汗)。深く反省。まず、資料を明示。オレオレデライタに関しては、熊本県のサイトなどを参照してほしい。大元である八代市・河童共和国のサイトはすでに閉鎖されている。オレオレデライタが呉人呉人的来多になるかどうか?は不明。そもそも本当に呉人が遣ってきたとしたら遥か卑弥呼の時代からの伝承であり、元々の古代中国語の発音とは相当開きがあるだろうし、確証なんぞあるはすがない。当時(呉滅亡時)に呉人の来訪があったとする説はいくつかある。いずれの説も日本の古墳から出土された呉の赤鳥年間の年号の記された神獣鏡が最大の根拠となっている。しかし、呉の赤鳥年間の鏡が出土されたから呉人の来訪があった・・と結びつけるのはいささか早計と言えるかもしれない。作られたのは呉の赤鳥年間であったとしても、その鏡が呉滅亡後に朝鮮半島経由で日本にもたらされた可能性も無視できないからだ。さらには五世紀の朝貢ルートも朝鮮半島経由であり、呉・会稽から九州地方に到る黒潮ルートは三国時代にはまだまだ一般的ではなかったのである。実際、孫権はこの黒潮ルートを使った倭国探索に失敗しているのだ。とは言っても、確かに呉滅亡時の呉人来訪の可能性は否定できない。国家規模の大規模な来訪はなかったとしても、呉書・孫権伝には会稽郡と倭国の間に民間レベルの通商があった事が明記されており、全く、来訪がなかったとは考えにくい。ただしその規模は至って小規模ではなかろうか?大規模な来訪があったと仮定した場合、その物証が神獣鏡しかないというのがネックなのである。