【 三国志における呉書のステータス 】
- では呉書について書いていく前に,三国志における呉書のポジションについて少し書きたいと思います。
- 三国志は蜀の家臣でありその蜀の滅亡とともに晋王朝に仕えた陳寿が作者です。それに南朝の宋の時代になって簡潔すぎる陳寿の三国志に裴松之が注を加えたものが今日本で和訳されています。少し読んでいくと分かるのですが陳寿の文は良くも悪くも簡素です。例えば一国の皇帝であるはずの孫権の伝ですら比較的詳しく書かれているのは前半だけで,赤壁が終わり政情が落ち着いてきた後半では
- 黄武3年の夏,輔義中郎将の張温を公式の使者として蜀に送った。
- 秋八月,恩赦を行い,死罪の者の罪一等を減じた。
- 九月・・・・・
- 色々と推測がありますが
- 陳寿の置かれた立場を考えると元は蜀の家臣であり,心中には劉備や諸葛亮に対する畏怖の念がありつつも,晋の家臣として魏を正当王朝として書くべく義務付けられている。そのために冷徹に私見を排除して書く必要があった。
- 歴史書として簡素で正確であるべきという考えを持っていた。
- 問題は1です。ちくま書房からでている正史三国志の解説にもありますが,構成を見る限り魏書30巻・蜀書15巻・呉書20巻となっており,また陳寿が皇帝として扱っているのは魏の皇帝だけであり蜀に対するひいきは全く行われていません。が、陳寿の思慮深さというか微妙な位置で蜀に対するステータスの向上が行われています。まずはその順番が魏→蜀→呉となっていて呉より蜀の方が上であるように構成した点。人口や国力を考えればまあ呉の方が上のはずです。
- また呉書では孫権のことを『権』と名指しなのに対して,劉備は『先主』・劉禅は『後主』と名指しにはしない点。また劉備が皇帝になった際の記述は詳しく書かれているのに,曹丕が皇帝になった際にはそのために行われた上奏文を一切取り上げず孫権に至っては皇帝になったと書いてあるだけである点などから,陳寿が微妙なニュアンスで蜀に対する自らの気持ちを表現したらしいことが分かります。
- つまり表向きは魏が正統。しかし裏では蜀が正統という気持ちが陳寿の中にあったのではないか?という推測が成り立つわけです。(この辺はちくま書房の解説の受け売りです^^;)ということは呉書の立場とは?つまり陳寿にとっては三国の中でもっとも思い入れが薄く実は韋昭(呉の家臣で実質的な呉書の作者)の文をほとんどそのまま簡潔にしただけであると言えるわけです。
- (注)韋昭の呉書について。陳寿三国志の呉書は、韋昭(韋曜)の呉書を簡潔にしただけではないか?というのはその通り。もう少し追加情報。韋昭の呉書は孫亮時代から編算が始まったが、孫晧期になっても「目鼻はついたが、叙や賛はない。」(韋曜伝より)という状態で、呉滅亡期でも未完成だった。それは一部の伝が途中で終わっていたり(例えば潘濬伝)、国家の重要人物の伝(例えば初代丞相の孫邵)がなかったりする事からも分かる。
その未完成だった呉書を陳寿は参考にしたのだが、完全に丸写しか?というとそうでもなく、孫権伝では、国家に対する朝貢の記録をオミットしていたり(呂岱伝に出てくる)、孫権のことを「権」と書き直したりする。(韋昭の呉書が君主の孫権を「権」と呼ぶはずがなく、おそらく「国家・至尊」などと書かれていたはず。)
ところが、本記(孫堅・孫策・孫権らの伝)以外になると、どうもほぼ丸写しだったようで、前述したような本記との非整合性が目立つ。つまり、本記の記述は後述のように「魏書・蜀書・呉書の中で最も政治的・思想的な制限は受けていない。」ところが、部下の伝においては「呉の都合によって書かれている」部分がある。このあたりを理解しておくと、謎を解く鍵になるケースがある。
- (注)韋昭の呉書について。陳寿三国志の呉書は、韋昭(韋曜)の呉書を簡潔にしただけではないか?というのはその通り。もう少し追加情報。韋昭の呉書は孫亮時代から編算が始まったが、孫晧期になっても「目鼻はついたが、叙や賛はない。」(韋曜伝より)という状態で、呉滅亡期でも未完成だった。それは一部の伝が途中で終わっていたり(例えば潘濬伝)、国家の重要人物の伝(例えば初代丞相の孫邵)がなかったりする事からも分かる。
- ということは魏書・蜀書・呉書の中で最も政治的・思想的な制限を受けず,歴史書として正統性が高いのが呉書と言えるのかもしれません。それだけに呉書の記述は簡素でありながら生々しくそこに生きた人物たちの生き様が力強く書かれているとも言えるわけです。 ▲
- (注)正当性が高い?かどうかは別として、
「簡素でありながら」←陳寿にしたら思い入れがないので詳しく書く意味がない。
「生々しく書かれている」←君主に敬意が払われてないので、孫権が自称神様にぼったくられたとか、酩酊して部下を殺しかけたとか、書かなくて良いことが平気で書かれているw
のは確かであらう。
- (注)正当性が高い?かどうかは別として、