【 孫呉政権と儒教 】
  • 今回の三国雑談は、呉書見聞始まって以来の大テーマです。正直に言いますが、私にこのテーマを扱うだけの知識背景はありません。私はただの孫呉ファンです。史学者が研究に研究を重ねた末でも議論の出る分野には、下手に手を出す訳には行かないのです。そういった事があり、呉書見聞開設当時から儒教関連の話は、私にとってはタブーに近い事でした。某所で口論となった一件もこの儒教がらみです。また、私の知人の藤谷さん(婉児さん)からも、これに関連するメールを何通も頂きましたが、私には知識背景もなくどう処置して良いかも分らず、結局半年近く悩んだ挙げ句、きれいさっぱり忘れる事にしました。しかし、もらったメールを無碍にする訳にも行きませんし、結局の所、個人のページでは個人の自由に三国志を考え、それを楽しむ権利がある・・・という暴論を根拠にこれについての考察をしたいと思います。簡単に言うと、ここから書かれる事は私個人の戯言です。そう思った上で見ていただけると幸いです。またここから先は、三国志の爽快な世界観とは全く異質な、どちらかというと気が滅入る系の話になる可能性が大変高いです。儒教と当時の中国社会の事に興味のない方にはお薦めできません。

  • 1.歴史の見方
    この話をするには、まずここから入らないとダメです。私を含めて前時代の人物や事件を考える時に、どうしても現在の我々の価値観で判断してしまいます。いや、現在でもそうです。韓国の歴史背景や、中近東の歴史背景を我々は知らないで、その地域に住む人々の行動を、自分の価値観で判断し善悪を決めます。簡単に言うと、中近東でひきたりなしに続けられる戦争を、愚かな事だと思っている人がほとんどのはずです。いや、本当に愚かな事かもしれません。全人類に共通の価値観として戦争が悪であるという価値観が正しいならば。
    しかし、その地域にはその地域の歴史的背景があり、その地域の価値観を理解した上で判断をしなければ、本当の意味で相互理解は不可能と言えます。現在でさえそうなのですから、遠く卑弥呼の時代の異国の人の価値観や行動・人物の批評を、我々だけの価値観で判断するのは、実は片手落ちなのです。ただ、私はこの儒教関連の話題に触れるまでは、歴史の意味は、前時代の人物や事件を、時代が進んだより進歩的な価値観と客観性を持つ人々が、それを教訓にする事ができるという点にあるのだと思っていました。だから、我々は我々の価値観で歴史上の人物を理解してよいのだ、と。事実そういう歴史の持つ意味は存在します。しかし、それだけでは、彼らを理解した事にはならないのです。ある人がこういう事を言ってました。
    【当時の人々が何を考え、何を基準に行動していたかを考えなければ、歴史という物の表層しか見えないと思います。それでは歴史を知るということの面白みの半分しか体験できない様に思います。自分は「歴史の醍醐味とは過去の人々と、現代に生きる私たちとの対話にある」などと思っているのですが、どうでしょうか?】この言葉は私に深く突き刺さりました。

  • 2.価値観のパラドックス
    しかし一方で、この考え方は、一般的な知識しか持たない歴史ファンが歴史について語る事を拒絶する事にもなります。当時の価値観についての理解がなければ歴史について語ってはいけないのか??ここの部分の舵取りが実にデリケートなのです。当時の価値観について考えずに我々だけの価値観で判断する訳にはいかない。では、当時の価値観を完全に理解しなければ語る事は許されないのか??このパラドックスに陥るのを本能的に分っていたので、儒教に対する話題は私にとってタブーだったのです。しかし、結局この部分に結論を導くには、個人のページでは個人の考えに基づいて、自分の楽しみとして語って良い・・・という、拡大解釈を行なうととんでもない暴論となる部分を根拠にするしかないのです。あくまで、当時の人々の価値観を知らない、もしくは一部しか知らないという前提に基づいて。また、私がこれについて語る事が、有意義な思考の土台になる事もあるかもしれません。そういう考えに基づいて、この巨大なテーマについて考察してみたいと思います。(結局、今までの部分は全部言い訳なんだな(核爆)。

  • 3.儒教という価値観
    さて、そろそろ本題に入ります。当時の人々の価値観を知る重要なファクターとなるのが、この儒教です。教とつくので宗教的なイメージを受けますが、むしろ当時の価値観と言って差し支えはないでしょう。しかし、この話がもっとややこしいのは、当時の中国社会にとって、儒教は重要な価値観だが、別の価値観も存在した・・・と言うことです。老荘思想、法家思想など、当時の中国では様々な価値観が存在しています。これらの価値観の興隆や、その歴史的背景まで話を延ばすと、もう私の手に負える範囲を逸脱します。しかし、多くの人が当時の士大夫は儒教的価値観に基づいている・・・という解釈を行なっており、正史の記述を見てもその断片は伺い知る事ができるのです。例えば、呉には孟宗という人物がいますが、彼なぞは正にその儒教の価値観を強烈にアピールする事で名声を得た人物です。また正史には人材の推挙法として、よく孝廉という言葉が出てきます。これは何かと言うと、地方自治体の有力者が人材を推薦する時に【この者は孝行で清廉であるから推挙します。】と言うことな訳です。即ち、儒教の価値観である【仁】【義】【礼】・・・と言った価値観を備えている者=優秀な人材であると認識されていた訳です。この価値観は当時の支配者層の根元となる考え方であり、曹操も孫権も劉備も、その価値観に対する取り組み方に違いはある物の、基本的には最も重要な価値観として、儒教の価値観は存在し続けます。

  • 4.実務と儒教の狭間
    しかし、儒教的価値観が全てであったのか??それが問題です。三国雑談の【 許邵(許子将)について 】でも述べたように、礼節を身につけていても、実務能力にかける人材というのは存在します。孔融などはその一例でしょうが、後漢書の評では【孔融は高潔で一本気であり、純粋な事、白玉のような人物・・・】とべた褒めです。これは漢の立場から、儒の価値観を押し進めた批評と言えます。しかし、一方で同じ後漢書に【注意力が散漫で気が大きいので大成しなかった。】と、儒教の価値観とは全く違った所で、その実務能力を問われたりもしているのです。逆の例も考えてみます。語弊はアリアリですが張昭。彼はもちろん孫策時代や孫権就任時に実務的能力を発揮していますが、赤壁以後のエピソードでは、どうも実務とは蚊帳の外・・・という感が否めません。それでも張昭は多くの士人から支持され、呉書では、周瑜や陸遜を差し置いて、丞相でもないのに官としてはトップに記述されている訳です。これなどは儒教的価値観が備わっていれば、それだけで優秀である・・・という一例とも言えます。
    また、孫権伝では、親が死去した時は三年間喪に服するという決まりが、実務に多大な影響を与えていた事が書かれています。(【 孫権外伝1 】参照。)そこで、儒教的価値観をいかに損なわないで、実務を遂行させるべきか?という実に興味深い議論が行なわれています。結局、国家への忠と親への孝を秤に掛けて、忠を優先する・・・という、本来的な儒教の根元である孝・仁を、忠というもう一つの儒教的価値観を根拠に破棄せざるを得ない・・・という事態になっている訳です。このエピソードはいかに儒教的価値観が重要であったかを知るための資料と言えますが、別の側面で見ると、儒教的価値観と現実の間に狭間が存在していた証拠とも言えます。また、そうした狭間が存在しないのであれば、曹操が【例え、不仁不孝であっても、治国用兵の才のある者は残らず推挙せよ。】などといった、儒教的価値観と相反する布告を出す必要など無いと言えるでしょう。

  • 5.曹操の価値観
    ちょっと孫呉の話をする前に、曹操と儒教について語ってみたいと思います。これはすごい冒険なんですが^^;。
    曹操を評して、法家の大家という批評も時々見受けます。曹操の人材登用が徹底して合理主義である点、それに孔融や荀彧の排斥がその根拠となっている物が多いようです。例えば、曹操のエピソードでこういうのがあります。
    【才能があっても徳行(儒教的価値観)の面で問題のある者は、任務を行うには不十分である、という者がいる。しかし、無能の者が功績をたてて国を豊かにしたという例は聞いたことがない。太平の時は徳行を尊重するが、有事の時には才能のある者を優先する。論者たちの言うことは見識が狭いのに勇ましい事を言っているのと同じだ。】(曹操伝の注の魏書)
    これを見ると、信賞必罰の法家的思想を曹操にかいま見る事ができるのですが、曹操が完全な法家思想の体現者であったかというと、そこは微妙です。このエピソードの中でも曹操は、【太平の時は徳行を尊重し・・・】とキチンと言っています。つまり今は有事の時だから、才能第一だ・・・という訳です。そこに徳行も備わっていないとダメと言う者たちに対して、曹操はそれは見識が狭いと言っている訳です。
    また曹操の配下を見ても、そのほとんどが儒教的価値観に沿った人材たちであるのは間違えないと思われます。こういう点を見ていくと、曹操は儒教的価値観を尊重しているが、それと実務能力がクロスする場合には悉く実務を優先した人物・・・のような気がします。

  • 6.孫呉政権と儒教的価値観の狭間
    なぜ、孫呉の話をする前にわざわざ曹操の話をしたかと言うと、孫呉政権においても実務と儒教的精神の狭間において実務を優先する傾向が多く見られるからです。
    曁艶失脚事件と言うのがあります。(孫権伝27【 曁艶失脚事件 】参照。)曁艶は、呉で高官にある人物の中に徳行が備わっていない者が多くいる現状に腹を立てて、人材をランクづけをして、徳行の備わっていない者たちを降格させようとしました。それに対して呉の重要人物たちがこぞって、曁艶に注意を与えている部分があります。
    • 失敗は忘れて手柄取り立ててあげる事で、教化を実現する事ができる。特に今は、王業の基盤を固める時期なのだから、善と悪をしっかりと区別してしまうのは、現実に即していない。(陸瑁が曁艶に送った手紙の内容。)
    • 天下が安定していない今は、過失を犯した人物もその有能さによって帳消しにして、欠点を忘れて働きを重視するべきだ。(朱拠が曁艶に意見して言った言葉。)
    • 陸遜は曁艶の行動に意見して、そういう事をしていると必ず災いを招く・・・と言っている。
    つまり、陸遜・朱拠・陸瑁といった呉の重要人物たちの間にも、実務と儒教的価値観がクロスする場合には実務を優先する、という思想が存在している訳です。彼らに共通しているのは、今は非常時(創業の時)だから・・・という点です。本来的には曁艶のやっている事を否定している訳ではないのです。つまり、彼らは根本的には儒教的価値観を尊重しながらも、現実論として不都合がある場合は、その儒教的価値観の優先度が下がってしまうのです。
    また、諸葛恪が陸遜に送った手紙の中に、許邵を貶めるような発言が存在します。これは大変長いので要約して載せますが、要するに、諸葛恪は自分の徳行に自信がなかったので、陸遜が才能のある人物がその行動の些細な事で非難されている現状を不満に思っている事を利用して、完璧な人物なんていないのだから、ちょっとした事には目をつぶってよ♪と言っているという内容の手紙なんです。(ちょっと要約しすぎですが^^;)
    腐れ儒家・・・という言い方があります。これは儒教の礼の作法などの形式論を必要以上に細かく言い立てて、実際にはなんの役にも立たない輩を指して言う言葉です。こういう言葉が存在していると言うことは、儒教の精神に理想論的な所があり、実際の政務になかなかその精神が直結しなかった・・・という背景はありそうです。曹操の言動や孫呉での曁艶事件などの例を見ても、そうした儒教的精神論と実務の間には、少なからず狭間が存在していて、その狭間を埋めるために儒教の解釈研究が積み重ねられていった・・・という中国思想史の歴史があるように感じます。
    「現実の漢帝国は、儒教的な理想とは程遠い存在であり、むしろ実現不可能であったからこそ、社会(漢帝国)が儒家的価値を突き崩すからこそ、知識人達を理想に燃え上がらせたのだと言えます。」
    これは藤谷さん(婉児さん)のメールの一文ですが、儒教と現実の狭間は確かに存在していたと言えるように思います。

  • 7.孫呉政権の成立の背景
    しかし、現実と儒教的価値観の狭間は存在していたとは言え、儒教的価値観は士大夫たちの根本的な思想背景であったのは、間違えないと言えるでしょう。そうでなくては、正史のいたる所に、この人は徳が備わっていた・・・あの人は無道の人だった・・・というような儒教的価値観に基準する批評が行なわれている理由が成り立ちません。
    しかし、孫呉政権と言う国を、中国の歴史上で普遍的な価値観を背景として存在した国・・・と捕らえるのは多少難しい点があるようです。藤谷さんは、それを孫呉政権樹立の過程と北魏政権樹立の過程との比較によって考察しています。
    「元々、孫呉政権は未開発な江南を本拠としており、江南の豪族たちは発展途上中と言って良い。その不自由分な部分を埋めたのが華北からの移住者であり、孫呉政権発足当初は、華北からの移住組と江南土着の豪族の政権に占めるウエイトはほぼ互角と言って良かった。しかし、孫権により江南の開発が進むと次第に江南土着の豪族たちも実力を備えてきたので、孫呉政権の後半になると、陸家・顧家と言った呉の豪族たちの政権に占めるウエイトは重くなっている。
    また孫氏は孫堅・孫策が武によって国を作り上げた背景があり、こういう武を中心とする集団は、君主と配下の個人的連帯感によって成り立っている。その仁侠によるつながりの表れが、華北には見られない世兵制(せいへいせい)(軍団世襲制度)であり、孫呉政権が豪族たちとの連合体であったという部分である。
    華北では、豪族の力が大きく伸びつつも、成熟した自家経営農民が広範囲にわたって存在し、彼らの共同体を求める郷論(郷村社会の世論)の盛り上がりによって、豪族の領主化傾向に抵抗し、武人領主ではない文人的な貴族への変貌に向かわせていっている。つまり江南は、開発途上にある社会であり、開拓屯田軍による軍政支配、呉や会稽の開発領主傾向の豪族達の合併が、孫呉政権という開発領主制的な体制を形成した。」
    藤谷さんは、こうした孫呉政権の背景を踏まえ、儒教的価値観の浸透には【地域差があるのではないか?】と述べています。
    「儒教的な価値観は、三国時代に限って言うなら、【地域差がある】というのが私の結論です。文人支配が完全に原則として成立するのはもっと後の時代だからです。
    武人が統治者として君臨し得なかった中国社会は、文人としての情熱や強靭さが根強いものだったからです。過去の文明を守りそれを発展させていく、世界史的にみると、その知識や見識がまったく断絶したと言える地域があったのに対して、中国ではそのような事が無く、幅広い知識人層が存在していました。そして郷論(その地域の世論)を利用した、官史の登用が華北では育ち、領主が一方的な支配者になることの歯止めをした社会です(前漢、後漢に限ってです、他の時代はどうだろう?)。その価値の根幹をなすのが儒教の教養でした。そういった面は江南で不十分だったのではないでしょうか?」

  • 8.孫呉政権と儒教(まとめ)
    こういった視点を加えていくと、孫呉において、しばしば儒教的価値観から逸脱す言動が存在する事が説明可能になります。
    魯粛は、【漢王朝の復興はもはや不可能だから、孫権は南に大帝国を築き上げ皇帝となるのが良い。】という、当時の士大夫が聞いたら不敬極まりない意見を自由な発想で考えています。
    孫権は、魏と蜀の二国の相反を利用して変幻自在な外交戦術を用います。しかし、これは儒教的価値観からは逸脱します。
    始祖であり、後漢の烈士として名声を得た孫堅からして、荊州刺史・王叡を自分の都合により殺害して見せます。
    イメージ的には、清廉潔白そうな陸遜でさえ、軍が撤退した後に、石陽の町を急襲し、裴松之に虐殺行為だとして強く批判されたりしています。また、彼が絶対的な儒教的価値観に懐疑的な考えを持っていた事は、いくつかのエピソードで推測が可能です。
    こうした点を考えると、江南という開発途上の土地に根付いた孫呉政権では、良い意味でも悪い意味でも儒教的価値観の浸透が不十分であったのではないか?という説も一理あるのではないか?と言う気がするのです。