【 実録・黄巾の乱 】
  • 孫堅伝の注をつけているうちに、孫堅の黄巾討伐の時の実際の動きが不明確なのに気づき、この際、黄巾の乱そのものについて詳細を考察してみる事にしました。
  • 黄巾の乱と言えば、三国志ファンなら誰でも知っているアレです。張角が起こした民衆反乱・曹操、孫堅、劉備らが台頭・えーと、何年で乱は平定されたんだっけ?張角はどうなったの?・・・というわけで、三国時代の幕開けとして重要な事件であるのに意外と詳細を知らなかったり。というのも、三国志正史では、黄巾の乱の詳細は断片的にしか存在していなかったりするのです。大元の武帝紀(曹操伝)からして、黄巾の乱の記述は数行で終わり。劉備伝ではわずか二行。孫堅伝に至ってやっとまとまった記述が出ますが、それでも記述が圧倒的に少ないのです。他伝は言うに及ばず。
  • むしろ、後漢書の霊帝記・皇甫嵩伝・朱儁伝の方に詳細な記述が存在します。まあ、時代区分で言えば、黄巾の乱は後漢末期な訳だし、この事件で最も活躍したのは皇甫嵩と朱儁なのだから、当然と言えば当然。というわけで、後漢書の記述を中心に黄巾の乱の推移を追ってみたいと思います。

  • 1.張角という人
    張角は鉅鹿の人。後漢書・皇甫嵩伝によると、張角は自らを大賢良師と称し、太平道の手法による病気治療によってその勢力を拡大している。同時期に、漢中に張衡による五斗米道・三輔に駱曜による緬匿の法と、同様の妖術(病気治療)に寄った宗教勢力の名が見られ、民衆レベルでの道教の流行は相当な物だったようである。
    張角は人間的カリスマを備えた人物だったのか、この三勢力の中で最も劇的に勢力を拡大し、霊帝の頃には、すでに三十六の方(一方が約一万人から成る軍事部隊)を率いるに至っていた。計算すれば総勢36万前後。その後、皇甫嵩や朱儁が一度は苦杯を舐める様を見ても、実数としての誇張はさほどでもないように思われる。また、方には渠帥と呼ばれる軍事指揮官が存在しており、完全な烏合の衆でもなかったようだ。これを見ても、張角は軍事行動による政権転覆を早期から計画・実践しており、それ相応の統率能力も見て取れるだろう。野心家であったとも思われる。

  • 2.勃発
    太平道による軍事反乱は周到に計画されていた。すでに信徒たちは、「蒼天已に死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり。天下は大吉ならん。」というキャッチフレーズを連呼し、いつでも事を起こせる状態。しかも張角は政権内部と外部の双方から決起する計画を立てており、もしこれが成功していたら、一気に漢王朝は転覆していた可能性すらある。
    • (注)有名な「蒼天已に死す、黄天まさに立つべし。」のキャッチフレーズは、五行陰陽説から言うと、ちょっとおかしい。と言うのも、五行陰陽説から言うと後漢王朝は火徳(赤)の政権であり、青(蒼)の政権ではない。ただし、これについては偽黒さん所ですっばらしい考察があるので、そっちを見てください。たぶん、「古い体制は終わった。これからは新しい体制の時代だ。」くらいの簡単な意味であろうと思われます。簡単でなきゃ民衆には分からんからね。
    しかし、政権内部からの決起は、内応によって露見する。大方(太平道の将帥格)である馬元義は、中常侍の封諝・徐奉らを内応させ、三月五日に内外ともに事を起こそうと約束していた。だが、教団内部からの密告で事は露見、馬元義は洛陽で車裂きにされる。同時に宮省の宿営及び人民が取り調べられ、張角の道術を行っていた事のある者千余人は殺害。首謀者である張角拿捕の命令が下った。事態は急展開を見せ、張角は予定より早く、二月の段階での一斉蜂起に踏み切る。

  • 3.黄天まさに立つ
    予定より早い段階での決起になったとは言え、張角の軍事行動計画は周到であり、外部からの反乱のみでも十分な効果があった。信徒たちは黄色の頭巾(黄巾)をつけ、一斉に蜂起、中原各地に動乱は広がりを見せる。張角は自ら天公将軍と称し、張角の弟張宝は地公将軍、張宝の弟張梁は人公将軍と称した。天地人という分かり易いネーミング、やはり張角は民衆レベルでの宣伝効果を熟知した扇動家である。下手に大将軍だの天子だのを名乗るより、こっちの方が受けが良い。何しろ森羅万象の大元である天と地と人が味方なのである。
    三月。対して霊帝は、何進を大将軍として首都防衛の任に当て、洛陽に至る八つの関に都尉(軍事指揮官)を置く。さらに反乱討伐軍司令官として、北中郎将の盧植に冀州の張角討伐を、左中郎将の皇甫嵩・右中郎将の朱儁に潁川の黄巾討伐を命じる。兵力は皇甫嵩・朱儁らの潁川討伐軍が4万。おそらく盧植の冀州討伐軍も同等であったと思われる。
    この時点で分かることは、勃発時の黄巾の主力は、お膝元の冀州と潁川の二箇所であるという事。殺された馬元義は鄴に数万の兵を集めていたとあるし、皇甫嵩・朱儁軍が緒戦において苦杯を舐めていることからも、冀州・潁川それぞれの拠点に10万前後の黄巾賊が集結していたのではないか?と思われる。よって、黄巾の基本戦略は冀州の主力部隊と潁川の別働隊の二方面から洛陽を目指す・・・と言った物ではなかっただろうか?洛陽を攻撃する際に、主力部隊と別方面から進入を試みる別働隊という考え方は、漢楚動乱時代でも実践された方法である。あるいは、蜂起計画が一ヶ月早まったために仕方なく二箇所に分かれたか?だ。ただ、一ヶ月で潁川から冀州まで集結するつもりだとしたら多少行動が遅い気がする。勃発直後に、武関寄りの南陽の黄巾の張曼成が郡太守の褚貢を攻め殺した事からも、潁川黄巾のは別働部隊であった可能性はある。

  • 4.この頃の群雄たち
    さて、そろそろ主目的であるこの頃の曹操・孫堅・劉備らの動向について調べていく。
    • まず、曹操。曹操は騎都尉(羽林の兵権を持ち独立軍を動かせる重職)として潁川黄巾討伐に参加している。後の記述を見ても皇甫嵩・朱儁軍への増援として赴任している。
    • 次に劉備。この時点で劉備はすでに悲しいほどに曹操に差をつけられており、校尉の鄒靖にしたがって冀州黄巾賊の討伐に参戦。校尉の下であるから、ほとんど雑兵状態。
    • 孫堅については、淮水・泗水で兵を集め、朱儁に請われ左軍司馬(部隊長)として潁川黄巾討伐に参加。
    • その他の黄巾討伐参加者としては、後に盧植の後を継ぐ中朗将・董卓。意外な所で、潁川黄巾討伐に参戦した豫州刺史・王允なんて名も見える。徐州刺史として陶謙も黄巾討伐に参加したという記述もあるが、これは時期的に見て張角の乱平定後の話ではないか?と思われる。袁紹・袁術は蚊帳の外。
    つまり。曹操・劉備・孫堅らは、黄巾討伐に同等の立場で参戦したようなイメージがあるが、これは全く違う。明らかに重要度は曹操→孫堅→劉備・・で、曹操については独立部隊の参戦として後漢書の記述に名前があるが、孫堅についてはあくまでも朱儁の主要部将として、劉備に至っては冀州討伐軍の一員としての立場でしかない。

  • 5.潁川討伐軍の動向
    さて、まずは潁川黄巾討伐に向かった皇甫嵩と朱儁の軍であるが、緒戦で朱儁が賊の波才と戦い、敗れてしまう。潁川黄巾賊は烏合の衆などではなく、指揮命令系統の整った戦闘集団として機能していたと言う事だろう。ならば、正面衝突すれば兵力の少ない方が負ける。この緒戦の大敗は相当のダメージを官軍に与え、皇甫嵩・朱儁軍は長社での籠城戦に追い込まれる。討伐軍が守りに専念せざるを得ない状態に陥った訳である。
    ただ、攻勢にある黄巾軍ではあったが、やはり総司令官の軍事能力差は存在していた。この段階で皇甫嵩の兵法理論が上を行った。黄巾賊が草原に陣を敷いていることに目をつけた皇甫嵩は、夜陰まぎれて火を放って陣営を焼討ちにする。同時に騎都尉の曹操が増援として派遣され、皇甫嵩・朱儁・曹操の三軍は一気に反攻に出て、首級数万級という大戦果を収める。時は184年五月。この長社での火計が潁川黄巾の乱の大きなターニングポイントになった。皇甫嵩と朱儁は勝ちに乗じて、汝南・陳国の黄巾討伐に向かい、波才を陽灌に、彭脱を西華に撃ち、ともにこれを破った。さらに東郡の黄巾の卜巳を倉亭に撃滅。ここに潁川戦線は官軍の大勝利に終わる。演義を知っている人にはお分かりだろうが、この皇甫嵩の火計は、劉備の黄巾討伐での作戦として描かれている。
    さて、この時点で潁川戦線に参加した群雄は、曹操・孫堅・王允などである。この中で最も勝利に貢献したのは、この時点で曹操。逆転のポイントとなる戦いでの参戦であるから大きい。王允も戦果を収め、後に司徒となるのであるから結果プラスであろう。問題は孫堅。どうもこの時点で孫堅は大した成果を挙げていない。というのも、孫堅は大きな軍事行動には初参加であり、緒戦の大敗にも関与しているはずである。しかも、西華の戦いでは、追い込みすぎて命を落としかけるという失態を演じており、どうやら成果らしい成果はない。孫堅が台頭してくるのは、その後の宛城攻略戦においてである。

  • 6.冀州討伐軍の動向
    次に冀州討伐に向かったの盧植軍の動向である。盧植軍は緒戦好調であった。張角三兄弟が冀州戦線の方に参加している事からも、こちらの黄巾軍の方が主力であると思われるが、盧植は連勝し、張角が広宗の城に篭ると、攻城兵器を繰り出し陥落は間近と思われた。この頃、潁川戦線も官軍の勝利に終わりつつあり、事態は一気に沈静化に向かうはずだったが、ここで清流派と濁流派の主導権争いという複雑な政治的要因が絡んでくる。
    盧植は小黄門の左豊に賄賂を贈らなかったため、軍事行動中に左遷される。ただし、事はそんな単純な話であるはずがなく、このまま盧植・皇甫嵩・朱儁らが戦功を立てるのを嫌った宦官派による政治闘争であると見てよい。皇甫嵩は、開戦前、非常時を理由に党錮の禁を解かせるのに成功しており、彼ら三名は明らかに清流派の士人であった。その盧植らに戦功を立てさせるのは、宦官派としては都合が悪く、戦場に出向くことができない彼らとしては、政治権力を使って彼らを左遷しようと図った訳である。
    左遷された盧植の後任として冀州戦線にやってきたのが、あの董卓である。こういったシチュエーションで後任としてやってくるのは、清流派の士人ではあり得ない。董卓は地方軍閥としておそらく濁流派とも一枚絡んでいたと思われるから、そう言った観点からの後任人事であろう。が、参ったことに董卓は濁流派の言いなりになる人物でもなかった。董卓は黄巾軍に敗れたとあるが、おそらく董卓は本気で戦っていない。むしろ折角の乱世の兆しを消す必要もない・・・くらいに考えていた可能性すらある。宦官派にしても、盧植を更迭しても敗退したのでは元も子もないわけで、董卓は罷免。おそらくほとんど戦わないままであっただろう。左豊は、盧植は黄巾軍を前に何もしない・・として更迭に追い込んだのであるから、この董卓の行動は実に皮肉っぽい。何もしないとして更迭された人物の後に来た後任の方が本当に何もしなかったのである。董卓は軍を温存したまま本拠に戻る。こうした漢王朝側のゴタゴタで、危機に瀕していた黄巾軍は息を吹き返す。時は184年六月である。
    さて、この冀州戦線側に参戦したのが、ストップ劉備くんである。が、前述したように重要な立場での参戦でないため、戦果はほとんど不明。ただし、戦後に安喜県の尉(補佐官)に任命されており、実戦で戦功を立てたと思われる。

  • 7.中盤における黄巾の乱の状況
    184年八月。この時点での戦況を整理する。まずは黄巾の二大拠点のうち、潁川黄巾軍は敗北。汝南・陳国・東郡の黄巾もすでに討伐されており、豫州・兗州付近の黄巾は壊滅していた。残るは南陽の張曼成であるが、長社の戦いのしばらく後に、南陽太守の秦頡がこれを破っている。南陽黄巾軍は趙弘を後継に立てて、宛城に篭っていた。もう一つの黄巾拠点であった冀州黄巾軍は官軍のゴタゴタによって息を吹き返し健在。朱儁伝には頭目の張曼成が討たれた後にも関わらず、宛に黄巾軍が集結している様子が描かれており、主力部隊と別働部隊という黄巾の基本戦略は生きている。さらに七月には漢中の五斗米道・張衡が反乱を起こし、漢中の諸県を攻略しており、未だ予断を許す状況ではなかった。
    続いて官軍の動きであるが、盧植・董卓を更迭した後、冀州攻略軍の指揮を任されたのが皇甫嵩である。宛攻略には朱儁が一足早く赴任していた。つまり、当初の盧植軍→冀州、皇甫嵩・朱儁軍→潁川・・という図式が、この時点で皇甫嵩軍→冀州・朱儁軍→宛・・と変化していた。王允は豫州刺史であるからこの時点で黄巾討伐軍からは退場。孫堅は朱儁旗下であるから宛攻略に赴任。劉備はおそらく冀州黄巾討伐に引き続き参戦している。この時点で動向不明なのは曹操。正史では、潁川黄巾討伐の後、済南国の相(郡太守相当)に任命されたとあるが、これが冀州なり宛なりの黄巾討伐に参加した後の事なのか、潁川攻撃の直後なのか?が不明である。ただし、曹操は初めから皇甫嵩・朱儁軍とは命令系統を別とする独立軍であり、潁川戦線へのピンポイント増援であった可能性がある。曹操は騎都尉として近衛騎兵団を指揮する立場であり、長期的に都を離れて戦う訳にはいかない。とすれば、冀州・宛いずれの黄巾討伐にも参加せず、長社の戦いの後に済南国に赴任したと考えるのが自然ではある。

  • 8.宛攻略戦
    朱儁は皇甫嵩より早く六月の時点で宛攻略に赴任している。この時点で宛に篭る黄巾軍は十余万とあり、秦頡らと合流しても二万弱の朱儁軍は物量的に不利であった。そのため宛攻略戦は長期化し、八月の段階でまだ朱儁は宛を落とせずにいた。おそらく六月~八月の時点での朱儁の基本戦略は包囲により宛城の補給線を絶つ事を目的としていたはずである。
    だがここで、朝廷内部で再び司令官更迭の話題が出てくる。朱儁伝によると、ある者が朱儁の更迭を上奏しているのである。これは盧植と同様に宦官勢力の政治闘争と見て良いだろう。ただ、今回の場合、盧植・董卓を更迭した後であり、加えて朱儁まで更迭すると純軍事的に問題が多い事もあり、すでに潁川戦線で実績のある朱儁に引き続き統率権が委任された。
    朝廷内部の問題を感じ取った朱儁は、戦果の伝わりにくい補給線遮断・包囲戦法を捨て、一気に宛攻略に取り掛かる。力攻めに転じたのである。朱儁軍は一戦し頭目の趙弘を斬る事に成功する。だが、賊軍は続いて韓忠を後任に充て、再び宛城に立て篭もる。時を与えず朱儁は二方面作戦による強襲を行う。主力に宛城の西南を攻撃させ、賊軍を西南方面に集中させる一方で、自ら精鋭五千を率いて城の東北を奇襲した。孫堅伝の記述と照らし合せると、この時、宛城西南方面の主力軍を率いたのが孫堅である。孫堅と朱儁の二方面作戦は大戦果を収め、孫堅は正面攻撃で黄巾軍の攻撃を跳ね返し城内侵入に成功。朱儁も東北方面からの進入に成功している。この戦果によって孫堅は朱儁の上奏により別部司馬(別動隊隊長)に昇格している。
    この戦いにより賊軍は宛城を退却し、別の小城に籠城。すでに戦意は低く、降伏の申し入れもあったが、朱儁はこれを聞き入れず、完膚なきまでに叩き潰す道を選ぶ。すでに黄巾の乱は各地に分散しつつあり、ここで降伏を受け入れても、再び反乱を起こしかねない状況であったようだ。窮鼠状態となった黄巾軍はしぶとく抵抗を続け、宛戦線が終結を迎えるのは、冀州戦線の終結より後の十一月になる。

  • 9.乱の終結
    184年八月に、董卓の後任として冀州黄巾軍の討伐を任じられた皇甫嵩であるが、霊帝紀・皇甫嵩伝などを総合すると、どうやら皇甫嵩が冀州黄巾軍討伐に赴任した時点で、教祖の張角はすでに病死していたらしい。この時点で冀州黄巾軍の主力は弟の張宝・張梁の率いる部隊が主力であった。ここでも黄巾軍の兵力は官軍を大きく上回っており、純粋物量では不利になる皇甫嵩は、夜間の奇襲攻撃により、賊軍を敗退させる。潁川戦線と言い、いかに皇甫嵩の兵法理論が優れているか?が如実に現れる。さらに十一月には曲陽にて張宝軍も撃退、これより少し後に宛の黄巾軍も壊滅し、ここに張角を首謀者とした黄巾の乱は一旦の終結を迎えるのである。乱の勃発からほぼ一年であった。

  • 10.エピローグ
    皇甫嵩・朱儁の活躍により、張角の黄巾の乱は平定を迎えた。だが、黄巾の乱が完全に平定された訳ではないことは、三国志ファンならご存知であろう。この後、黒山賊・白波賊を初め、徐州・青州各地に黄巾の残党が分散し、その余波は数十年に及び、後漢の事実上の崩壊の引き金になった。三国志の幕開けである。
    さて、この黄巾討伐で最も名を上げたのは、一も二もなく、皇甫嵩である。黄巾討伐が始まってから皇甫嵩はまさに連戦連勝であり、スーパースター状態であった。だが皇甫嵩には独立の意思は全く、あくまでも漢の一武官としての人生を歩む。軍を動かせば神の如く、謀は余人に真似ができる所ではない、とまで言われた皇甫嵩は、宦官勢力の掣肘・董卓との軋轢の中、病死した。彼に乱世の群雄として生きる意志があった場合、どうなっただろうか?この時期で皇甫嵩の名声に勝る者はほとんどおらず、反董卓連合の主席には彼が選ばれたであろうし、その後の展開も大きく変わったはずである。ただし、あまりに正道的な彼の行動理念は確かに群雄として生き延びるには向いていないと言えよう。功績第二位の朱儁においてもその点は全く同じである。
    さて、本来の目的であった曹操・孫堅・劉備らの黄巾討伐のその後への影響を考察して見よう。結果は
      曹操・・・騎都尉→済南国の相
      孫堅・・・下邳県の丞→涼州討伐を経て長沙太守
      劉備・・・無官→安喜の尉
    という事である。
    曹操に関して言うと、彼が飛躍したのはむしろ、反董卓連合であり、その後、兗州牧として青州黄巾三十余万を手に入れてからである。元々騎都尉であった事を考えれば、済南国相というのは、大した意味は持ち得ないように思う。つまり、実は曹操は黄巾討伐では目立った飛躍は得ていない。潁川戦線での曹操の功績は大であるだけに、意外と働き損という感じを受ける。
    対して、この黄巾討伐で最も飛躍したのは、孫堅である。下邳の丞に過ぎなかった孫堅は親分格の朱儁が黄巾討伐の将として転戦する中で、軍中で最も戦果を上げた部将として、続く辺章討伐軍にも参加。反乱鎮圧の手腕を買われ、区星の乱の起きた長沙太守に抜擢される。孫堅にとって黄巾討伐こそが、最大の幸運であり、飛躍ポイントであった。
    劉備については、無官から県丞への昇進であり、まさに政界デビューの第一歩が黄巾討伐であった。だが、劉備は直後に県の役人を杖で二百回叩き上げ、官職を捨てて逃亡。さらに別の戦功を挙げ、今度は下密の丞に任じられながら、またしても官職を捨てて流浪。まだこの頃の劉備に群雄とならんとする計画性は全くない。
    三者三様。黄巾の乱は確かに三国時代の幕開けであった。