【 孫皓はいかにして暴君に「なった」のか? 】
  • 孫皓伝の注をつけているうちに、あまりにも混沌としすぎたので、三国雑談にアップします。題して【孫皓はいかにして暴君に「なった」のか?】。題を見れば分かるように、このテキストでは「孫皓は本当は暴君ではない」ことを前提としてします。本来、あるべき姿ではないのですが、仮説として検証していきます。
  • 1 孫皓は「暗愚」ではない
    まず孫皓は「暗愚」ではありません。極めて頭の切れる人物です。
    • 「世説新語」より。
      孫皓は、晋に降伏した後、司馬炎に「南の人は、お前(汝)という言葉を用いた詩を作るのが好きだというが、卿も作れるかね」と問われ、

        昔与汝為隣   昔はお前と隣同士
        今与汝為臣   今ではお前の家来だよ
        上汝一杯酒   お前に一献進ぜよう
        今汝寿万春   お前の長寿を祝うため

      という詩を即興で詠み、司馬炎は孫晧にこの質問をしたことを後悔した。

      同じく「世説新語」より。
      司馬炎と王済が碁を打っていた。王済は傍らにいた孫皓に、「そなたは呉を治めていた時に、人の顔の皮を剥いだと聞くが本当かな?」と尋ねた。孫皓は、「臣であるのに君に非礼をはたらいた者があったので、この刑を科したのです」と答えた。すると王済は、司馬炎の足元に投げ出していた足をたちどころに引っ込めた。
    司馬炎は軽く南方(呉)を小馬鹿にしました。それに対し孫晧は、即興で全ての句に「汝」が入った詩を作り、時の皇帝を汝(お前)呼ばわりしています。しかも、命じたのは司馬炎だから、受け取らざるを得ない。後段のエピソードも、とっさのトンチの効いた受け答えであり、雰囲気的には諸葛恪・楊脩に近いものがあります。極めて頭の切れる人物かつ、プライドの高さもうかがえます。孫皓が皇帝となったのも「孫皓には才智と見識があり、孫策様にも劣らず、学問を好み、法律を順守している」(孫晧伝本文)と評されたからです。これが呉書・孫晧伝を読むうちに、あまりの暴虐非道ぶりに、「この評価は間違っていたのだ」というイメージを受けますが、晋に降伏した後もこの頭の切れ様です。つまり孫皓は「皇帝就任時から呉滅亡時まで一貫して、極めて頭脳明晰だった」と仮定することが可能です。
  • 2 成功している外交・対外戦略
    孫皓というと家臣の離反・殺害だらけで、ろくな政治をしていない印象を受けますが、外交・対外(対晋)戦略という意味で言うと、かなり成功していると言えます。
    • 孫皓は皇帝就任後、即座に晋に臣従している。その徹底ぶりは「姓だけ記し名は記さない」「二度、文頭に白げる(もうしあげる)と記す」という遜り様である。(江表伝より)
    • 呉の帰順を促すため、晋に投降した徐紹と孫彧を「公然の埋伏の毒」として、呉に送り返すという、極めて屈辱的な外交を強いられているにも関わらず、それを受け入れ、かつ呉領内で不穏な動きをしないよう、徐紹を抹殺している。
    • 268年に突如として臣従をやめ、交州を回復すべく具体的な行動を開始する。そして271年に念願の交州奪回に成功する。
    • 272年には陸抗の奮戦もあり、西陵陥落の絶体絶命の危機を回避している。
    孫皓が皇帝となった時は、蜀は滅亡し、交州も離反するという、絶望的な状況にありました。この状況に対応し、国是のために屈辱を受け入れ、かつチャンスが訪れたと見るや、臣従を撤回し、交州奪回に成功。その後の西陵督・歩闡の投降という絶体絶命の危機も、陸抗の奮戦により回避しています。見方によっては夷陵の戦い前後の孫権の柔軟さ・機敏さを再現しているようにも思えます。つまり、孫晧の頭の良さは、トンチやとっさの受け答えだけでなく、実務面でも生かされている、と仮定することができます。
    • (注)少し話がそれるので注という形で。271年、孫晧が親族を引き連れて建業西方の華里まで幸行を行うという、どうにも解釈不可能な事件を起こしています。気でも狂ったのかと思わせる文章です。しかし晋書を見ると「三月 孫晧帥衆趨寿陽 遣大司馬望屯淮北以距之」。意訳すると「孫晧が人々を率いて寿陽に向かったので、大司馬の司馬望を淮北に駐屯させてこれを防いだ」という感じです(寿陽は寿春の晋代の呼び名)。対して晋は大司馬・司馬望を淮北に駐屯させています。実際の戦闘は起きてないように思えますが、これだとなんらかの軍事行動と思われます。一族・親族を同行させ、「不退転の決意で行軍をした」という感じでしょうか?だからこそ晋は司馬望を駐屯させています。それを呉書は「御幸」と書いています。
  • 3 増えている人口
    孫晧伝で書いたように、呉滅亡時の人口は230万人。兵糧の備蓄は280万石、所有戦艦が5千艘とあり、呉書で何度も書かれているように「孫皓は無駄な遷都・好色・浪費により国庫をからっぽにした」という割には、十分な貯蓄と戦力です。呉の初期の人口は150万程度だったことを考えても、呉の開発・発展は孫晧期になって衰えたわけではありません。確かに家臣の離反・殺害が相次いでいるので、人が逃げた・少なくなった印象はありますが、それは家臣に限った話で、呉の人口・国力は高まっています。孫皓期の政策として特徴的な事の一つに「分郡」(一つの郡を分割すること)があります。
    • 孫策期1回 盧陵郡(豫章郡から分割)
    • 孫権期5回 新都郡(丹陽郡から分割) 鄱陽郡(豫章郡から分割) 漢昌郡(長沙郡から分割)
            武昌郡(江夏郡から分割) 東安郡(丹陽・呉・会稽から分割。後に廃郡)
    • 孫亮期4回 湘東郡(長沙郡から分割) 衡陽郡(長沙郡から分割) 臨海郡(会稽郡から分割)
            臨川郡(豫章郡から分割) 
      孫休期2回 建平郡(宜都郡から分割) 天門郡(武陵郡から分割)
    • 孫皓期8回 始安郡(零陵郡から分割) 始興郡(桂陽郡から分割) 
            呉興郡(呉・会稽郡から分割) 邵陵郡(零陵郡から分割)  
            東陽郡(会稽郡を分割)  安成郡(豫章・盧陵・長沙郡から分割) 
            新昌郡(交趾郡から分割) 桂林郡(鬱林郡から分割) 
    在期17年の間に歴代最多の分郡を行っています。その特徴は歴代でもあまり手を付けられることがなかった桂陽・零陵、交州の分郡を多く行っていることです。孫晧伝注に「行政区分に定数はない」と述べたことが書かれており、特に安成郡などは州区分すら飛び越えており、その思考の柔軟さを見て取れます。孫呉において分郡が行われるのは、反乱終息後のことが多いです。つまり反乱を鎮圧し治安を安定化するための措置です。しかし、孫亮期あたりから、反乱とは関係のない計画的な分郡も行われることが多くなり、桂陽・零陵・交州においての分郡は、新たな土地開発・人口増加の可能性のある土地として、孫皓が着目していた可能性があります。279年に郭馬の反乱が起きますが、その原因は「孫皓が広州の正確な戸籍を調べ課税しようとしたから」です。
  • 4 もし孫皓が明確な意図を持って家臣を駆逐していたとしたら?
    こうした面を見ていくと、孫皓はそもそも「英明」であり、行政的にも対外的にも明確なプランを持って国家運営を行っていたと、仮定することができます。仮にそうだとしたら、「なぜ孫皓はこれほどまでに家臣の冷遇・処罰・追放」を乱発したのか?おそらく、家臣冷遇・処罰・追放が、孫皓の悪評を産み、それが「国費浪費・小人盲信・淫蕩」と言った悪評に繋がっていると考えられます。「英明」なはずの孫皓が、こうした処分の結果、何を産むかを理解していなかったのでしょうか?確かに孫権の子孫らしい?酒席での暴虐ぶりや、頭脳明晰な人物にありがちな他者との協調性のなさ、二宮の変の被害者としての成育歴から来る人格的障害等、孫皓の人間性にその理由を求めることもできます。あり得ない話ではありませんが、それにしても「多すぎる」。もし孫皓が「明確な意図を持って家臣を駆逐していた」としたら?それは一体なんだろうか?というのが、このテキストの目的です。(あくまでの仮説であり、孫皓の暴虐は「孫皓の人間性に問題があった」と取ることも全く可能です。)
  • 5 駆逐された家臣団一覧
    目的があって、家臣を駆逐したとすれば、被害にあった家臣の傾向を分析することで、何かが見えてくるかもしれません。時系列に沿って一覧にしてみます。数が多すぎるので、女性・親族及び、殺害理由が明確な者(呉の帰順のために舞い戻った徐紹、軍事行動で失策のあった李勖・徐存など)は除外します。また処罰年度がはっきりしない者は予想の年を入れています。しかし・・こりゃすげーな。本当に「孫皓の意図」を読み取ることができるのか心配ですw やはり、ただの暴君か?
    名前 処罰年 官位 処罰 出身地等 出典
    濮陽興 264年 丞相 流刑・殺害 陳留 本文
    張布 264年 驃騎将軍・侍中 流刑・殺害 不明 本文
    王蕃 266年 常侍 殺害 廬江郡 本文・江表伝
    張俊 270年 豫章太守 処刑 不明 本文
    楼玄 271~5年 大司農 流刑→自殺 沛郡 本文・江表伝
    万彧 272年 右丞相 憤死 不明 本文・江表伝
    留平 272年 左将軍 憤死 会稽・長山 江表伝
    何定 272年 殿中列将 死罪 汝南 江表伝
    薛螢 272年/? 光禄勲 流刑→復帰×2 薛綜の子 本文
    滕牧 272年以後 衛将軍 流罪 滕胤の親族 本文
    丁奉 272年以後 右大司馬・左軍師 死後一族強制移住 廬江郡 本文
    陳声 273年 司市中郎将 惨殺 不明 本文
    韋曜 273年 左国史 投獄→殺害 呉郡・雲陽 本文
    渓煕 274年 臨海太守 一族抹殺 不明 本文
    郭誕 274年 会稽太守 労役 不明 本文
    賀邵 275年 太子太傅 流刑→復帰・殺害 賀斉の孫 本文
    華覈 275年 右国史 罷免 呉郡・武進 本文
    張尚 不明 侍中 労役→誅殺 張紘の孫 本文・呉紀
    陸凱 275年 左丞相 死後一族強制移住 陸遜の一族 本文
    車浚 276年 会稽太守 斬首 不明 本文・江表伝
    張詠 276年 湘東太守 斬首 不明 本文・江表伝
    張俶 277年 司直中郎将 処刑 不明 本文・江表伝
  • 6 政権掌握の過程で失脚した人物(濮陽興・張布・万彧・留平)
    まず最初の2名、濮陽興と張布は更迭理由がかなり明確です。濮陽興と張布は孫休期の中心人物であり、孫皓期になって政権中枢を担うことになった万彧らの意向もあって、流刑になっていると考えられます。政権交代期にありがちな事です。
    所が272年になると、孫皓期において政権中枢を担うと思われていた万彧が失脚、関連して留平も失脚します。両者とも「孫皓を見限る発言をした(江表伝)」「譴責を受け憤死(本文)」等の記述があり、かなりキナ臭い印象を受けます。この万彧らの失脚と前後して、孫晧の「皇帝親政」が開始されているように思えます。というのも、万彧更迭以降、279年に張悌が丞相に任命されるまで「丞相が不在」と思われるからです。政治中枢の取りまとめ役を置いていないということになります。また、270年代の初期に処罰を受けたと思われる楼玄は「何かと言えば御決裁を仰がなければならないことが多い」と、その伝の中で述べています。つまり陸凱死去、万彧更迭により、孫晧は全ての政治的決定を自分自身で行う体制を確立しました。ほぼ「独裁」と言って良いように思えます。
    260年代は王蕃を除外すると「暴虐」というほどの殺され方をした人物は少ないと言えます。対外的にも孫晧は晋に臣従していました。「孫皓が皇帝に就任した当初は、人々は名君であると称えた(江表伝)」というのはそういう事です。孫皓は「自分のやりたいことを我慢して羊の皮をかぶっていた」のです。その目的は「政権を完全に掌握するため」「蜀滅亡・交州離反という絶望的な状況から、ひとまず一息入れる時間的余裕を得るため」だと思われます。
  • 7 綱紀粛正のため殺害された人物(張俊・何定・陳声・渓煕・郭誕・車浚・張詠・張俶)
    270年代に入ると、処罰された人物に大きく二つの流れが垣間見えます。その一つが「綱紀粛正のため殺害・惨殺された人物」です。妖言を信じ栄華を夢見た張俊、権勢を笠に着て悪事を働いた何定、孫皓の妾を処罰した陳声、国政を批判し反乱行為に至った渓煕、独断で事実を上奏しなかった郭誕、税を上納しなかった車浚・張詠、讒言誣告を乱発した張淑。彼らに共通しているのが「官位は太守・中郎将以下」で「出身地は不明(何定を除く)」ということです。つまり実地レベルの行政官であり、有力な豪族ではありません。彼らの中には何定・陳声のように、当初は孫皓の寵愛を受けていた者もいましたが、最終的には、綱紀を乱したか、皇帝の権威を傷つけたかによって、車裂きの刑に処せられたり、山の麓に頭だけ捨てられたりと、酷い処罰を受けています。
    つまり、270年代に入り孫皓親政がスタートすると、孫晧は「行政官の締め付け」を開始したと思われます。孫晧伝に「274年、使者25人を派遣しそれぞれ州・郡に入り、逃亡者を摘発した」とあります。監察官であり、彼らの使命は「行政官を監視し孫皓の意図を隅々まで行きわたらせること」です。また呉書第20に伝のある楼玄・賀邵・韋曜・華覈伝には、数々の孫皓への諌文がありますが、その多くに「刑法が厳しい」「税の取り立てが酷い」とあります。孫皓は行政官の締め付け・監視を強化し、反乱を未然に露見させると共に、収益のアップを目論んだと考えられるのです。
    また孫皓が「車裂き」「頭だけ投げ捨て犬に食わせる」「皮を剥ぐ」等の極刑を処したのも、「見せしめ」という意味合いが強いと思われます。問題はこれらの行為によって「孫皓は呉の家臣たちから非道だと批判されたのか」という点です。結論から言うと、おそらくこれらの行為は問題視されていません。呉滅亡後、晋に仕えた李仁という人物が、この事について孫皓を弁護しています。
    • 「孫晧伝注」より。意訳。
      呉滅亡後、李仁は「孫皓は皮を剥ぎ、足を切ったってマジ?」と聞かれ、「古来から肉刑は非道だとはされていないし、皇帝の孫皓が法に沿って処刑したとして何か問題が?」と答えた。
      また「孫皓は、目を逸らされたり、直視されたのりするのが嫌いで、その眼をえぐったって言うけどマジ?」と聞かれ、「そういう行為は非礼だと礼記にもあるし、ましてや家臣なら、そんなことしたら処罰されて当たり前だと思うけど何か?」と答えた。
    また陸凱・楼玄・賀邵・韋曜・華覈らの伝には、これでもかと孫皓の非道が述べられていますが、その中に「刑罰の実施方法が非道だ」とはどこにもありません。(法律や禁令が厳しくなったとはありますが、その実施方法が非道だとは書かれていない)。つまり、こうした行為は少なくとも呉内部では、問題視はされていなかったと考えることができます。
  • 8 更迭された有力家臣(王蕃・楼玄・賀邵・滕胤・張尚)
    残る黒字の人物たちは、いずれも「有力家臣」です。彼らの処罰理由を考察することで、孫晧の政治姿勢が見て取れると思います。
    まず王蕃ですが、彼は酒宴の際、正殿の前庭で惨殺されたとあり、他のメンバーから見てもかなり異質です。呉書内の孫皓を諌める上奏文のほとんどに登場しており、王蕃惨殺が家臣の大きな動揺を招いたことが分かります。酒宴の席で暴虐性を発揮したのは、孫晧に限ったことではなく、孫権も何度か酒宴の席で家臣を殺しかけます。孫晧と違うのは、実際に殺すまでは至らず「お酒の席でのワシの命令は無効だよーん」と言ってのけた点です。孫晧の場合は、酒宴の席で重臣たちを議論させ、その失言・言動を理由に更迭していることが多く、酒宴の席を「皇帝権威確立の場」と考えている感すらあります。また、王蕃伝注呉録には、王蕃が万彧を指して「山間の渓谷の出身者(身分の卑しい者)がなぜこんな所にいる?」と言っている場面があり、この辺りに王蕃惨殺の原因があるかもしれません。
    楼玄と賀邵は、国政を誹謗したとして広州に強制移住となっています。楼玄は強制移住のまま死亡したのに対し、賀邵は罪を一度は許されています(後に殺害)。これは楼玄が孫休期からの家臣であるのに対し、賀邵は孫策期からの功臣の家系であることが大きいと思われます。賀邵伝を読むと「賢人が隅に追いやられ、小人が権勢を笠に着ている」「法律・禁制が厳しくなり、徴用・税金が重くなっている」という趣旨の諌文があります。
    滕牧は、孫晧の外戚に当たります。しかし、その立場から家臣に押し立てられ、孫晧に諌言を上奏することが多くなり、蒼梧郡に強制移住となっています。しかし爵位はそのままでの移住です。呉書においては、孫権期からすでに「強制移住」(原文は「遣」「送」等)となった人物は多く、開発が必要な地に送られています。孫晧期は建安郡・臨海郡、そして広州が主な強制移住地です。多くの場合、強制移住となったからと言って反旗を翻すことはなく、後に中央に復帰するケースも多々あります。イメージとしては「降格」なのではないかと思われます。
    張尚は張紘の孫です。張尚もちょっとしたことがきっかけで、建安郡に強制移住となり、その後誅殺されています。
  • 9 死後一族が強制移住となった人物(丁奉・陸凱)
    まず丁奉ですが、手柄を重ねるごとに驕慢になったと批判する者がいて、死後家族が臨川郡に強制移住になったとあります。丁奉は孫晧期随一の猛将であり、対外作戦には不可欠な人物でした。そういうこともあって、生前は孫晧が丁奉に危害を加えることはありませんでした。死後に家族が強制移住となった事には、あまり大きな意味はないように思えます。
    問題は陸凱です。陸凱自身は269年に死去します。その後、274年に陸抗が死去すると、275年には陸式・陸禕ら陸凱の一族は建安郡に強制移住となります。陸凱伝は大部分が孫晧への批判で構成されており、特に陳寿が「真偽が不明瞭」とした「孫皓を諌める二十項目」は、その内容からも後から作られた物と思われます(時の皇帝への上奏としては無礼に過ぎる、武昌遷都(265年)の計画を批判する上奏文に266年に殺害された王蕃の事が書かれている等)。別に本文の中に書かれている(陳寿が事実と判断した)上奏文を見ると「武昌への遷都をやめるべき」「刑罰が重い」「賢者の意見を聞き入れない」「無駄な工事・出兵を取りやめるべき」「仁徳による教化を推し進めるべき」等の内容が書かれています。しかし武昌遷都(265年)段階で、孫晧は晋に臣従しており「無駄な出兵」はありません。しかも翌266年には建業に戻っているので、もしこの上奏文が事実だとしたら、孫晧は陸凱の意見を取り入れたということになります。また陸凱がその諌言の中で「信任してはならぬ」とした万彧と何定は、その後、更迭されており、これも陸凱の遺言を採用したことになります。陸凱伝を読むと、陸凱の諌言を孫皓は聞き入れなかったというイメージを受けますが、事実関係だけを洗うと、陸凱の上奏のいくつかは聞き入れている可能性があります。三代に仕えた陸凱は孫晧も尊重せざるを得ない大物であり、死後、一族を強制移住させるのは、巨大化した名声を一度リセットするという意味合いが高いように思われます。
  • 10 呉書との関係で処罰されたり許されたりした人物(薛螢・韋昭・華覈)
    まず、韋昭は呉書の編算を担当していました。韋昭は、孫晧が求める瑞祥を「でっちあげ」としたり、孫晧の父・孫和の伝を本紀(皇帝の伝)とすることを拒否したりしており、韋昭が処罰されたのは、呉書の編算方針を巡って孫皓と対立したからと思われます。
    華覈も韋昭らと共に、呉書の編算に携わっていました。しかし華覈は「農耕養蚕推奨、増税反対、農耕期の出兵反対」を何度も繰り返し上奏しており、彼の場合もそれが処罰の原因です。しかし、孫晧は華覈に韋昭の後をついで、呉書を書かせようとしていた形跡があり、彼が大量の諌文を書いているにも関わらず、なかなか処罰されなかったのは、そういう背景があるように思われます。
    薛螢は、処罰された人物の中に入れるべきか迷いました。というのは、彼は強制移住→復帰→強制移住→復帰を繰り返しており、呉滅亡時も孫晧の傍にいたからです。彼が何度も復帰したのは、文才があるからであり、おそらく孫皓は、薛螢に呉書の続きを書かせるつもりだったのではと思えます。
    また、これは陸凱伝にも同じことが言えますが、呉書第20「王蕃・楼玄・賀邵・韋昭・華覈伝」は、そのほとんどが陳寿の自筆と思われます。彼らは全て孫皓に害された人物であり、特に呉書編算に関わっていた韋昭・華覈らが自分の伝を自分で書いたとは思えません。つまり韋昭・呉書に記述されていた部分はないか、あってもごく一部でした。よって陳寿自身で加筆する際、たくさん資料が残っていた華覈の上奏文を使っています。だから、彼らの伝のほとんどは華覈の上奏文で埋まっているのです。
  • 11 有力家臣の処罰の傾向
    ここで一旦、有力家臣の処罰の傾向を分析します。
    • 結局、国政を批判したか皇帝に無礼を働いた(と孫皓が判断した)人物が処罰されている。
    • 王蕃を除いて、いきなり殺害された人物はおらず、「強制移住」あるいは「強制移住後、殺害」というパターンが多い。
    • 功臣・名声の高い家臣・呉書の編算に関わる家臣に対しては、処罰が慎重。
    • 「刑法が厳しい、税が重い」という内容の上奏が多い。
    • 工事・出兵(いずれも農繁期)を批判する内容の上奏が多い。
    • 「賢人が遠ざけられ、小人が権勢を笠に着ている」という内容の上奏が多い。
    まず、「1」に関しては、孫皓(皇帝)の意向が、そのまま国家方針として実行されることを孫皓が望んだことを示していると思われます。そのためには、国政批判・皇帝に対する無礼を厳しく取り締まる必要があり、いわば「中央集権体制」を目指した物と考えることができます。
    「2」については、そうは言っても有力家臣をいきなり惨殺する訳にはいかず、強制移住(地方への出向)を経て、中央への影響力を削ぐ形を取っていることが分かります。強制移住には「開発」という意味もあります。呉という国家全体のことを考えれば、未開地の開発が進めることは重要な施策の一つです。移動されられた家臣は不満でしょうが。「3」も同様です。名声のある家臣や史書編算に関わる家臣に対しては、慎重にならざるを得ません。
    「4」は国家収益増強のためです。収益を上げなければ晋に対抗することはできません。しかし豪族にとっては、税は少ない方が自勢力を増強できます。「民のため」とも言えますが、本音はそこではないでしょうか?「4」の「工事・出兵の批判」も同じです。農繁期に出兵や工事を命じられたのでは、豪族もたまったものではありません。むしろ「晋を滅ぼす」なんて夢物語を考えるより、農耕養蚕を推奨した方が理にかなっています。
    で、最後の「6」。「賢人」「小人」とは誰のことを指しているのでしょうか?陸凱・賀邵・華覈らの上奏文を見ると「賢人」とは王蕃や名声のある有力な家臣(あるいは自分自身)のことであり、「小人」とは万彧・何定ら「卑しい身分なのに寵愛を笠に着て権勢を奮う輩」です。晋書「吾彦伝」の記述を引用します。
    • 「晋書・吾彦伝」より。
      司馬炎が「呉はなぜ滅びたのか?」と問うた所、薛瑩は「小人を信任し、刑罰を濫発したため、多くの人の不信感を招いた」と答えたが、吾彦は「孫皓は英明であり、呉の将兵も精鋭ばかりであった。よって、呉の滅亡は天命だったのだ」と答えた。
    おそらく、薛瑩のいう事も吾彦のいう事も「双方の立場から見た事実」なのだと思います。薛瑩のいう「小人」とは、孫晧が登用した「身分の低い新規採用者」であり、刑罰を重くし重税を課すことで、豪族たちの「不信」を招きました。対して吾彦は陸抗に抜擢され新規に採用された「小人」の一人です。陸抗は吾彦を抜擢する際に「人々が納得しないだろう」ということを心配しています。そうした身分の低い人物の一人である吾彦からすると、孫晧は「身分に関係なく才能で人物を抜擢し、晋に対抗しようとした英明な人物」と映ります。
  • 12 孫皓が抜擢した人材
    孫皓は多くの人材を放逐しましたが、放逐したからには、それだけの数の採用をしています。では、どんな人物が孫晧期に採用・昇進したのか?
    まず、269年には、丁固を司徒、孟宗を司空に任命しています。両名とも貧しい家の生まれで、孟宗は孟宗竹の由来となった人物です。
    276年には、董朝を司空兼司徒、周処を太常に任命します。周処は呉滅亡時の無難督で、呉滅亡後、王渾が「祖国が滅びて口惜しくはないか」」と呉の群臣に尋ねた所、「あなたの仕えた魏は呉より先に滅亡している。国の滅亡に口惜しい思いをしたのは、一人に限りませんでしょうよ」と答えた人物。晋でも活躍する名将です。
    279年には、張悌をしばらく空位であった丞相に任命します。張悌は襄陽郡の人とあり、諸葛靚に向かって「あなたの家の丞相(諸葛亮あるいは諸葛恪)に抜擢された」と言っています。つまり諸葛亮・諸葛恪いずれだったとしても「抜擢」であり、名士ではありません。張悌は呉滅亡時には「自分は今ここで死すべきだ」と言って決死します。
    それ以外にも多数の人物が昇進・抜擢されていますが、いずれも今まで、呉の人材としては馴染みのない姓が多いのが特徴です。
  • 13 まとめ
    以上の点から、孫皓が「極めて頭脳明瞭」かつ「明確な意図を持って国家運営をしていた」と仮定すると、その目的は以下のような事だったのではないかと考えることもできます。
    • 国家を安定させるためなら、孫休のように呉の有力豪族と協調し、農耕養蚕を推奨するのが良い。それで名君としての名声も手に入る。だが孫晧は、晋に本気で対抗しようとしていた。
    • 豪族たちの本音は「対外出兵反対・増税反対」である。表立って発言している訳ではないが、晋への臣従を継続することを望んでいた者も多かったのではないかと思われる。(特に陸凱はその傾向が見られる)。対して孫晧は晋への臣従をやめ、交州を奪回すると共に、晋への侵攻を開始した。
    • 国内的には、監察官を州・郡に派遣し、行政官レベルの締め上げを開始した。それにより収益アップを狙った。同時に揚州荊州南部・交州の未開地の開発に着目し、これらの地域の開発・人口増加を目指した。
    • 国政批判・皇帝権威軽視を行う豪族たちには、過剰と呼べるほどの厳しい対処をした。対して、歴代政権では馴染みのない人材を起用し、中央集権体制の確立を目指した。
    これはあくまで「仮説」です。王蕃の一件などは、暴虐と呼んで良いと思いますし、暴君としての素質も十分に感じます。また、上記の「孫皓の意図」が事実であったとしても、結局失敗していることには変わりありません。郭馬の反乱も交州への締め付けを強化したことが原因で、その郭馬の乱が晋による制呉戦の契機となっています。制呉戦では、奮戦したのは張悌・吾彦ら孫皓が新規で起用したごく一部の人材だけで、迫害された有力豪族たちは、すでに本気で晋と戦う気もなかったかもしれません。そもそも晋に対抗するなら、臣従を継続し、晋の綻びを見て決起するのが上策とも言えます。
    しかし、呉書において孫皓に対する記述は、間違えなくマイナスディバイスが働いています。陸凱伝などはその最たる物です。孫晧が暴君でなかったら、呉滅亡の責は、その家臣が負わなくてはなりません。孫皓が暴君となるのは、孫皓が国家改革を目指しそれが失敗し、呉が滅亡した時点で決定していると言えるかもしれません。江表伝の記述ではありますが、孫晧は群臣にあてた手紙の中で「責任は私一人にある。晋への出仕を拒まず、諸君の発展と自愛を祈る」とあります。江表伝ですから、あまり真に受けることはできませんが、孫皓は自分が暴君になることを理解し、家臣たちの再出発の障害にならないように配慮したのかもしれません。