【 謎の人・陶謙 】
  • 今回の三国雑談では,陶謙にスポットを当てたいと思います。陶謙というのは不思議な人です。まず演義での陶謙像は, 曹操によって自領を略奪され、最後は劉備に国を譲った善人、というイメージ。所が正史では陶謙は 『道義に背き、感情にまかせて行動した』とあり、演義のイメージとはずいぶんと異なります。んじゃ史実の陶謙は極悪非道な人物で、演義のイメージは嘘なのねーって事になりそうなのですが、陶謙について正史の記述を調べてみると、そうとは言い切れない部分も出てくるのです。一体本当の陶謙像はどっちなのか?
  • まず,正史における陶謙のマイナスイメージとプラスイメージを挙げてみましょう。

    【陶謙の悪評】
    • 陶謙は下邳で勝手に天子を僭称した闕宣(けっせん)と同盟を結んで略奪を働いた。(陳寿の本文)
    • 笮融(急進的仏教教祖)のような輩を配下にしていた。(本文)
    • 孫策の元に赴いた呂範を袁術の手先と考え拷問にかけた。(本文)
    • 江都にいた孫策親子を迫害した。(本文)
    • 張昭を茂才に推挙したが、応じなかったので捕らえて牢獄に入れた。(本文)
    • 広陵太守の趙彧を推挙したが、応じなかったので、刑罰にかけると脅して配下にした。(後漢書からの引用)
    • 曹操の父・曹嵩を殺害した。(本文・世語からの引用)
    • 陶謙は道義に背き、感情にまかせて行動した。(本文)

    【陶謙の良評】
    • 劉備に徐州を譲った。(本文)
    • 陳登や王朗・糜竺といった面々を採用した。(本文)
    • 陶謙を頼ってきた劉備に丹楊兵4000を貸し与えた。(本文)
    • 許貢が呉郡太守を殺害した時、高岱は陶謙に助けを求めた。(呉録)
    • 陶謙は剛直で節義のある人物だった。(呉書)
    • 張温に従って韓遂討伐に赴いた時、酒宴の席で張温の指揮を満座の中で批判した。(呉書)
    • 陶謙は曹嵩を殺したのではなく、曹嵩が盗賊に殺された責任を負わされたのである。(呉書)
    • 張昭は陶謙が死ぬと哀悼の辞を作って陶謙の死を惜しんだ。(呉書)

  • なんとも、ここまで評価の分かれる人物も珍しい^^;。同じ正史の中でこれだけ食い違った記述が出てくるのですから困った物です^^;。大体、張昭が陶謙によって牢獄に入れられたのなら、張昭が陶謙に対して哀悼の辞を読んだりするでしょうか?どう考えても奇妙です。こりゃ一体どういう訳か??
  • 所が、悪評と良評の出典を見比べてみると、一つ面白い事が見えてきます。悪評のほとんどは陳寿の本文であり、良評は劉備関連のものは本文、それ以外については呉書・呉録といった呉関連の書物からの引用なのです。こう見ると、陶謙評というのは魏側と呉側で全く違ったものであった・・・という事が分かります。魏としては陶謙をなんとか暴君にしたかったし、呉としては陶謙をなんとか名君にしたかった・・・そんな政治的背景が見えてきます。ではその政治的背景とは何か?
  • それは恐らく、曹操による徐州での大虐殺が原因です。曹操は陶謙を攻めた時に徐州で大虐殺をしています。その凄まじさたるや、『男女数万人を泗水に投げ込んだため、川の流れが止まった。』『鶏や犬まで絶え果てて、村里には通りかかる人もいなかった。』(いずれも曹瞞伝からの引用)というほどでした。この虐殺は曹操の個人的恨みからの暴発という見方が主流ですが、いずれにしてもこの虐殺はまずかった。虐殺は言い訳できない事件であるし、この虐殺のため徐州付近の士人・民衆たちが大挙して長江以南に避難。孫呉政権に北方の士人たちの参入を許す結果となります。
    • (注)このテキストはかなり初期に書いたものだが、その割にはよく書けている。だが、「史書というものが、いかにその史書を編算した側の理論の元に人物評価がされているか、という一つの指標」と締めくくっておきながら、曹操による徐州大虐殺が「あった」と断定しているのが残念。
      曹操の徐州虐殺に関する陳寿本文の記述は、曹操伝「所過多所残戮」、陶謙伝「謙兵敗走,死者萬數,泗水爲之不流」という記述である。これをふつうに読めば「曹操と陶謙が戦って、曹操が大勝し、陶謙軍に多数の死者が出た。死体で泗水の流れがせき止められるほどだった。」ということしか分からない。つまり、陳寿の本文を読む限り、「民衆を虐殺した」とは判断できない。
      民衆をも虐殺したとあるのは、「後漢書」「曹瞞伝」「呉書」等であり、虐殺ありの方向でディバイスをかける可能性は否定できない。つまり「虐殺があった」と断定するのは、いささか視野が狭い。
      ただ、孫ぽこ的には、これらを差し引いても「徐州の豪族が曹操を恨む程度の事件はあった」と考える。というのも、この時期の前後に徐州の名士たちの多くが徐州から脱出し、孫呉政権に参入しているからである。諸葛瑾もその一人。
      ではどういう事件があったのかを考えると、「三国志サポート掲示板」の「徐州大虐殺」のスレッドの中でむじんさんが、納得のいくことを書いている。「鶏や犬がいなくなった」ということはどういうことか?鶏や犬をどうしたか?と考えると、そりゃ当然「食べた」んでしょう。なぜ、そんなものまで食べたのか?そりゃ「食べるものがなかったから」です。なぜそんなに食べるものがなかったのか?それはちゃんと曹操伝に書かれています。「この年、穀物は一石五十余万銭に高騰し、人間同士が食い合うほどだった」と。食べるものがなかったから、豪族や民衆から食べるものを略奪し、その過程で虐殺があった・・・と考えると、曹操の指示というより軍の暴発です。なるほど・・と思います。
  • 魏側としては、この虐殺をなんとか理由をつけたい。そのためには陶謙が善人ではまずかった。そこで陶謙の悪評をことさら強調する必要があったわけです。陳寿は晋の家臣として正史三国志を書いている訳ですから、魏寄りの記述をしなくてはならない。逆に呉には、この徐州での虐殺を目の当たりにした士人たちが政権の中枢を担う存在として参入しています。実際に虐殺を見てきたきた士人・民衆にとって曹操は非道の人物であり、相対的に陶謙の株が上がります。また、曹操の徐州での虐殺は、呉にとって魏の不当性を主張できる素材として、貴重なものだったとも考えられます。そのためにも呉側としては陶謙=名君である必要が出てくる訳です。それと蜀側としても、曹操の徐州での虐殺は大いに宣伝できる所ですが、それが正史に出てこないのは、おそらく蜀に正式な史学書がなかったということが原因しているように思えます。
  • こう考えると、史実の陶謙像を探るには、徐州での虐殺とは無関係の所から拾ってくるしかない、と言うことになります。そうなると陶謙のやったこととして、クローズアップされてくることは、
    • 張温の韓遂討伐軍に参加している(つまり、武官だった。)
    • 孫策一派を迫害している。(呉書の中に出てくる訳ですから信憑性が高い。)
    • 陳登・王朗・糜竺・張昭・趙彧など、人材の確保に精力的だった。(ただし、張昭には士官を断られている。)
    • 劉備一党に対して、好意的だった??(いまいち不明。まあ傭兵として重宝していたということかもしれません。)
  • こういった点でしょうか?まあ、曹操の侵攻を一度はくい止めている訳ですから、それなりの能力を備えた人物であったと言えるでしょう。また人材の確保に精力的だったり、孫策一派を迫害したりしているわけですから、乱世の群雄として野心は持っていたと思って良さそうですね。それでも最後の謎が残ります。なぜ、劉備に国を譲ったのか??こればっかりはどうにも結論が出せません。分かるのは、糜竺・陳登・孔融といった面々がこぞって劉備を後釜と考えていた事。陶謙一人の考えではない。もしかしたら陶謙には実は劉備に国を譲る気はなかった?のかも??うーん、分かりませんね^^;。
  • それと、陶謙の例を見れば、史書というものが、いかにその史書を編算した側の理論の元に人物評価がされているか、という一つの指標のような気がします。また、魏・呉の思惑とは全く違った所で、後世になって、演義の元で善人として評価が固まるのですから、なんとも皮肉なものです。
    歴史とは怖いものですね^^;。  
    • (注)さて、このテキストでは「陶謙が劉備に国を譲ったのは謎」として、あまり追求していません。当時はこれではないか?という物は見つかりませんでした。今でも確証はありませんが、少し思うこともあります。
      一つは「ゲームの感覚が抜けてないね。」ということ。陶謙を光栄三国志シリーズのように「君主」の一人と考え、その後継を考えるなら、子孫が当然です。それを劉備に譲ったと考えるから謎なのであり、その前提が違うなら謎でもなんでもありません。
      当時の陶謙の役職は、徐州牧・安東将軍・溧陽侯です。このうち侯の位は子孫に受け継がれるものであり、劉備に譲渡するものではない。続いて将軍職は死後は王朝に返還される。つまり劉備が引き継ぐ役職は「徐州牧」である。で、「牧」の位は世襲か?という点であるが、三国時代で言うと「世襲が多い」。例えば益州牧の劉焉の後は息子の劉璋が継いだ。荊州牧の劉表の後は劉琮が継いだ。孫権・劉備は言うに及ばず。これを見ると陶謙も徐州牧の位を子孫に継がせるのが当然に思える。
      しかし、同時代に「例外」がある。例えば幽州牧の劉虞の死後は牧の位を誰かが引き継いだ様子はない。冀州牧・韓馥は袁紹に牧を譲っている(実質強奪だが)。その他にも多数のマイナー州牧が存在する(冀州牧・賈琮等々・・)。
      つまり、「牧」という位は「刺史」に比べ、軍事権があり権力は大きいが、所詮は一役職名に過ぎず、世襲の権限が最初からついているような物ではない。劉焉・劉表らは州支配を長期化し権限を拡大することによって、世襲を可能ならしめたとも言える。となると董卓死後に牧に任じられ、194年には死去している陶謙に牧の位を世襲できるような権限があったか?というと・・・強引に世襲させる権力があればできただろうが、曹操に敗れボロボロの状態の陶謙にそんな権限などなかった・・と考えた方が自然ではないかと思う。
      となると、普通なら陶謙死後は徐州牧の位は空位となるのではないか?と思われる。しかし、なんとか徐州牧の地位を存続させ、徐州の独立性を維持しようと考えたグループがいて、それが麋竺・孔融・陳登らではないろうか?劉備伝にそのあたりの記述がある。
      • 陶謙は病気が重くなると、麋竺に「劉備でなければこの州を安定させることはできない」と言った。
        麋竺がこのことを劉備に伝えると陳登は「漢王朝は衰えている。功績をあげる機会は今である。」という。劉備は「袁術に徐州を与えるのがよかろう」というと、陳登は「袁術は驕慢な男で徐州を治められる人物ではない」という。さらに孔融も同様の趣旨を述べ、劉備は徐州牧を引き受けた。
        その後、袁術が劉備を攻撃している。
      これらの記述は、その人物が本当にそう言った・・と捉えるのではなく、当時の情勢を示す物と考えた方が良い。つまり、このグループは袁術に徐州を取られることを恐れている。で、袁術の侵攻を食い止めるため、劉備を担ぎ上げようとしているわけだ。麋竺はそのことを陶謙に伝え了承を取ったか、あるいは遺言をねつ造したかである。