【 孫晧皇帝就任の謎 】
  • 264年,7月。孫休が急死する。孫休は最後は言葉がしゃべれなくなって死んだが,皇太子はきちんと立てていた。だから普通なら皇太子の孫ワンが孫休の後をついで皇帝となる。
  • しかし,孫休死後,呉では孫ワンではダメではないか?という雰囲気が蔓延していたと思われる。なぜなら,時期的に蜀が滅びた後で,しかも交州が離反していた。この状況を打破するには,軍事的な能力を兼ね備えた人物をトップに抱きたい・・・そういう願望が呉の重臣らの間に存在していたのである。それともう一つ。孫ワンの年齢である。はっきりとした年齢は分からないが,孫休が30才で死んだ事を考えれば,どう考えても十代半ばくらいであろう。この国難を抱える時代に幼帝はまずいというのは,孫亮の一件で証明済みである。
  • そこで20才以上の孫家の皇帝候補選びが始まる。まあ,いくら孫家でも亜流ではまずいだろうから,候補としては孫権の直系の子孫に限られるだろう。その皇帝候補選出の過程の中で,孫皓にスポットが当たるようになる。『孫皓には孫策様のような才能と見識があって,さらに学問を好んで,法を順守している。皇帝候補として十二分だ。』と,左典軍の万彧(ばんいく)が進言していたのである。それを持って当時,政権の中枢にいた濮陽興・張布・丁奉らは,最終的に孫皓に的をしぼって,太皇后の朱夫人に孫皓を皇帝にしたい旨を伝える。政治に参加する気のない朱夫人は,自分の子を皇帝に推す事に執着せず,呉がそれでまとまるなら・・・・という事で,孫皓が皇帝に迎えられることになった。
    • (注)孫権直系で、皇帝候補たりえる人物は誰か?まず孫登の息子三人のうち二名は早死しており、生き残っていた次男の孫英は孫峻誅殺を企て自殺している。つまり孫登系列は全滅。孫慮には息子はいなかった。孫和の息子の中で長男が「孫晧」。孫晧の弟三人は、孫晧のライバルではないので除外。孫覇には孫基、孫壱の二人の子がいて、孫亮期の257年に孫亮の馬を盗んだ一件が孫亮伝に書かれている。当時の孫亮より年下だが、馬に乗れるくらいだから10代と思われ、264年段階では、成人しているか成人間近である。だから「孫基」は皇帝候補の一人だ。で次の「孫奮」。彼は264年段階で生存している孫権の唯一の息子。だが諸葛恪誅殺事件後、建業に乗り込んで政変に乗じようとし、庶民に身分を落とされている。その後、258年には名誉回復されたのか、章安侯に封じられている。一応、皇帝候補の一人。孫休さんの息子は前述のようにおそらく一人も成人しておらず、脱落。孫権の末っ子・孫亮はすでに殺害されている。
      つまり。孫休死後、孫休の息子を皇帝に立てないとしたら、候補は「孫基」「孫晧」「孫奮」に絞られる。このうち最初に候補から脱落したと思われるのは孫奮。彼は性格に難ありで、庶民に落とされた経歴を持つ。軽率かつ粗暴で、その選択はあり得ない。となると孫晧か孫基が残る。図らずも二宮の変の当事者の息子二人が候補に残っている。で、孫晧が選択された。あるいは孫基は264年段階でギリギリ成人(20歳)に達していなかったのかもしれない。だとしたら20代以上で皇帝候補は孫晧しかいない。
      こう書いていくと予想がつくと思うが、孫晧が皇帝になった以上、ライバル足りえる孫基の命運は明白。当然のごとく、その爵位と封国は削られ会稽郡・鳥傷に強制移住させられている。・・が不思議というかなんというか、孫晧が暴虐であったという割には、強制移住させただけで、最後まで殺害には至っていない。父・孫和と皇帝の座を争った当事者・孫覇の息子を・・である。もし孫和を崇拝し、父の名誉を傷つけた人間を許さないという孫晧の性格上の課題が本当であるなら、真っ先に殺害候補になりそうなものである。だがそれがないということは、孫晧は根っからの暴君ではなかったという一つの指標になるかもしれない。
  • 万彧は,孫皓が鳥程候となって鳥程に赴任したとき,鳥程の令をやっていた。その頃から孫皓とはつきあいがあり,孫皓が皇帝となれば,出世は間違えなかった。そのため万彧の進言にはたぶんに誇張があるとは考えられる。しかし,濮陽興・張布・丁奉といった面々も最終的に孫皓を皇帝にする決定を下したのであるから,あながち,この評価が全くの嘘八百とも思えない部分はある。
  • 孫皓には皇帝になる前の逸話がほとんどなく,この頃の孫皓の評価はよく分からない。しかし孫策になぞらえたと言うことは,それなりの覇気と威厳を持っていた・・・という気はするのである。ただし,濮陽興らには孫皓の内面の問題までは分からなかった。こうして孫皓は第四代の呉皇帝となる。時に孫皓23才。年号を元興と改元し,大赦を行った。しかし,まもなく,呉の人々が期待した孫皓像とは全く異なる孫皓の内面の問題が明らかになるのである。