【 孫謙の乱 】
  • どうやら孫晧の武昌遷都のあたりから、呉内部にも孫晧への失望と反逆が出てきたようである。266年の十月には、永安公・孫謙(そんけん)の反乱が起きる。孫謙は孫和の三男で孫晧の弟に当たる。事の発端はやはり武昌遷都である。首謀者は施但(したん)。施但については山賊という表記があり、山越族と考えて良さそうである。施但は孫晧が建業を離れたのを好機と考え、孫謙を無理矢理、自分たちの反乱の御輿に担ぎ上げた。孫謙はどうやらほとんどバカに近かったようで、彼は担ぎ上げられるままに施但らと建業にまで行軍。そこで丁固・諸葛靚軍が施但軍を迎え撃ち、結局、施但らは逃亡する。で、孫謙は戦いの間、ボーっと一人で馬車に座っていた所を丁固らに保護される。まあ、これだけの事をしでかしてしまったのだから仕方ないのだが、その後、孫謙は自殺させられる事になる。
    • (注)孫謙は孫晧の弟。自分の弟である。孫晧伝本文では自殺とある。孫和伝注「呉歴」には孫晧に毒殺され、その母と息子も殺されたとある。つまり、孫謙は孫晧の異母兄弟ということになる。マイナス方向で見れば「異母兄弟だから殺したのだ」と言えるし、プラス方向で見れば「これだけの事をやってしまったんだから自殺するのは仕方ない。」とも言える。
  • この孫謙の乱などは、武昌遷都がなければ起きなかった反乱と言えるだろう。しかもこの事件はこれだけで終わらなかった。孫韶(そんしょう)の息子に武衛将軍・臨成公となっていた孫楷(そんかい)という人物がいる。どうやら彼はかなり名声のある人物だったらしいのだが、この孫謙の乱の時、孫楷は二股をかけていた・・・と讒言する者がいたのである。孫晧は孫楷に対して詰問の使者を送るのだが、身の危険を感じた孫楷は、妻子と私兵を率いて晋に逃亡してしまった。晋では彼を優遇して車騎将軍・丹楊公に封じることになる。車騎将軍となると、かなりの地位。呉からの逃亡者と言うことでかなり優遇されただろう事は想像に難くないが、それでも名声がなければこの官位は与えられないだろう。さらに孫謙と同じく、孫和の四男である孫秀(そんしゅう)も、この事件に関係があるのかないのか、この後、殺害される事となる。
  • さらに、嘘か真か全く判別のつかない大事件が正史には書かれている。陸凱が孫晧の廃位を策謀していたというのである。さすがに孫晧伝の本紀にはこの事件は全く出てこないのだが、陸凱伝に、その事件の事が【このような事件があったという者がいる】という形が書かれている。陸凱は丁奉・丁固と共謀して、孫晧を廃位して孫休の息子を帝位に就けようとした。当時、留平(りゅうへい)が孫晧の行進の先導をやっていた事から、陸凱らは留平にこの計画を伝える。しかし留平はクーデターへの参加を拒絶、そのかわりにこの計画の事は絶対に外部に漏らさないと誓言したため、この計画は立ち消えになった・・・というのである。陸凱という人物は、孫晧への諌言の書の真偽といい、この事件の真偽といい、なんとも謎のある人物である。詳しくは陸凱伝で述べたいが、孫晧が結局、陸凱には手を出せなかったという点からみても、当時、孫晧と陸凱の間で微妙な主導権争いがあっただろう事は、武昌遷都の一件からもなんとなく読めるのである。
  • 結局、すったもんだの末に、266年12月には孫晧は都を建業に戻す。武昌遷都が265年11月以降であるから、武昌に都があったのは、わずか一年足らずという事になる。まあただの国庫の浪費に過ぎない。武昌には衛将軍の滕牧が留まって守備に当たる事になる。この頃にはすでに孫晧の滕夫人への寵愛は薄れていたと思われ、それにともなって滕牧も中央から左遷されたと考えて良かろう。次回は孫晧の女性遍歴について述べる事にしたい。 
    • (注)武昌に滕牧が留まったことを指して「左遷」と書いているが、これは穿った見方。外戚である滕牧が残るというのは、それだけ武昌が重要拠点であったということである。滕夫人への寵愛が薄れていたというのもかなり疑問が残る。確かにそう滕夫人伝に書かれているが、「事実として滕夫人は最後まで皇后であり、降伏後は一緒に洛陽に出向いている」。