【 滅亡への序曲 】
  • 268年、左右の御史大夫であった丁固と孟仁がそれぞれ司徒と司空に昇進となった。二人とも有徳の士とたたえられている人物である。丁固は元の名を丁密。早くに父を亡くし、貧しい生活の中で苦労を重ねて出世している。孟仁は元の名は孟宗。孫権外伝1の【孫権,職務規定を定める。】で、職務放棄をしたとして自ら出頭してきた人物である。親孝行の代名詞的人物だ。
  • さて、この年あたりから今までなりを潜めていた孫晧の軍事行動がさかんになってくる。9月には孫晧自身が東関に出撃、丁奉と諸葛靚に合肥を攻撃させる。丁奉は敵将・石苞へ計略を仕掛け、石苞を前線から外させるのに成功した。しかし勝ったという記述はなく、おそらく大きな戦果はなかったと考えられる。さらに孫晧は、呉にとって後顧の憂となる交州の奪回を計画、交州刺史の劉俊(りゅうしゅん)・前部督の脩則(しゅうそく)を派遣して、交趾に攻撃をかけたが、晋の部将・毛炅らに打ち破られ、劉俊・脩則ともに戦死してしまう。
  • 翌年の269年には、大々的な交州征圧の軍を起こす。監軍の虞汜・威南将軍の薛詡・蒼梧太守の陶璜らに荊州から陸路で、監軍の李勖・徐存(じょそん)には建安から海路で合浦を目指させたのである。が、この二方面軍のうち、海路を取った李勖軍は海路が難渋してしまい、案内役の馮斐(ふうひ)を殺して軍をまとめて帰還してしまった。帰還した李勖を待っていたのは、佞臣・可定の讒言による一族皆殺しであった。
  • 可定は、元々は孫権の給史(使いっ走り)である。孫晧の外戚の可一族とはどうやら違う。可定は、言葉巧みに孫晧に取り入り、国政をろう断した。【江表伝】によると、可定は李勖の娘を自分の息子の嫁にしたいと李勖に持ちかけたが、李勖がそれを断ったために、李勖への讒言をしたのだという。さらに可定は部将たちに高価な犬を献上させ、一匹の犬に一人の兵士をつけ、犬の縄に一万銭の費用をかけ、犬に食べさせるための兎を取り尽くした・・・らしい。日本にも似たような将軍がいたな^^;。まあ、犬の話は誇張もありそうだが、陸凱も可定の事を小役人と言っており、佞臣だった事は間違えない。
  • その可定の行動がさらに問題を起こす。孫晧は可定に命じて兵五千を率いて夏口で巻き狩りを行わせた。なんでこの時期に夏口で狩りなんぞするのか??大変奇妙な話である。実はこれには裏があった。夏口の督となっていた孫秀(そんしゅう)は以前から孫晧との不和が噂されており、おそらくは孫秀の監視を可定が買って出た・・・そんな感じなのである。それに対して、孫秀の行動は素早かった。身に覚えのない疑惑をかけられる前に、さっさと一族・私兵を率いて晋に逃亡してしまったのである。晋では孫秀を驃騎将軍・会稽候に封じて歓迎した。
  • さらに呉の人材の損失が続く。270年四月には、かねてから孫晧とうまく行っていなかった(という魏の声明文がある。)左大司馬の施績(朱績)が、そして遡る事一年前、269年十一月には、孫晧が唯一手を出せなかった大物、陸凱が死去しているのである。彼ら二名の死去と、急に好戦的になった孫晧の行動とはおそらく無関係ではないだろう。さらに271年には、呉最後の叩上げの猛将・丁奉と冒頭に紹介した孟仁が死去している。こうして、次々と呉を支えた人材が死去していく。
  • 271年には、孫晧は大晦日の日におもだった親族を引き連れて、建業西方の華里まで幸行を行うという、どうにも解釈不可能な事件を起こしている。これは華覈(かかく)らが必死に引き戻したので孫晧は建業に戻ったらしい。訳が分からないが、【江表伝】によると、丹楊の刁玄(元、孫登の側近。孫登の側近には諸葛恪・張休・顧譚・陳表・謝景に范慎と優秀な人材が多い。どうも彼だけ最後に道を誤ったように見える。なお彼は以前、孫亮の馬に乗ってしまった孫基をどうやって救うかという問答を孫亮とやった人物である。その頃の彼からはこんな行動を取るとはとても思えないのだが。【孫亮外伝】参照。)が、司馬徽の話を改ざんして、『黄色い旗と紫の蓋(きぬがさ)が東南に出現し、最後に天下を有するのは荊州・揚州の主君だろう。』と言いふらし、また寿春の城下では、『呉の天子がまもなく上ってくる』というはやり歌が歌われている・・と人々に語っていた。それを聞いた孫晧はこれぞ天命なのだと言い、洛陽に行って天の命ずる所に応じると称して一路洛陽を目指した・・・。しかし寒さのため、車を引いていた兵たちが『もし敵と出会ったら、敵と一緒になって呉に刃を向けるぞ!!』と言っていたため、仕方なく孫晧は建業に戻った・・・とある。もし、江表伝の通りだとしたら、すでに孫晧は常軌を逸している。所謂、現実逃避というやつだ。にわかには信じがたい話なのだが、かと言ってこの行動になにか必然性があるかと言われると・・・わからん。どうにも不可解な事件である。
  • こんな無茶苦茶の中、271年には交州征圧に出発していた虞汜・陶璜らが、なんとか交趾を破って、九真・日南を呉領に復活させるのに成功したのである。やはり、交趾は晋と距離がありすぎ、すでに食料難が頂点に達していたようだ。交趾城での呉側の虞汜・陶璜らの行動と晋側の楊稷(ようしょく)・毛炅らの行動は大変面白いのだが、これは後にしたい。さらに虞汜らは交趾の豪族・扶厳(ふげん)を破り、そこに武平郡を置くことになる。この交州の呉領復帰は孫晧の治世で唯一と言って良い成果だろう。そしてここまで無茶苦茶な状況の中でも、孫晧には幸運な事に一身をかけて呉を守る人物がまだいた。陸抗幼節。その人である。