【 西晋王朝成立 】
  • 話は魏の話になる。蜀の平定とそれに伴う鍾会の反乱が平定された後、264年には、司馬昭が魏の相国・晋王となり,いよいよ西晋王朝成立が目前となる。
  • その司馬昭であるが、蜀の平定後に呉に攻め込むという方法を採ることも出来たはずである。しかし司馬昭がそれを採らなかったのは、呉の国力を恐れたからというより、鍾会らの反乱という不安定要素があったからに過ぎない。いかにも深慮遠謀な司馬昭らしい。またこの時期は司馬昭にとって、晋王朝の基盤作りをする時期であり、呉の事は後回しにしたかった。
  • そこで、晋王は、かつて寿春城を守備していて、魏に降っていた呉の武将・徐紹(ジョショウ)と孫彧を使者に立てて、呉に臣従を迫った。いや、正確に言うと、二人は使者ではない。呉を帰順させるために呉に返却された、のである。かなり屈辱的な外交と言って良いだろう。しかし孫晧にはこれを拒絶する事はできなかった。この時点で国力差は歴然としており、受け入れるしかなかった・・・と思われるのである。
  • 孫晧は、265年には紀陟(キチョク)と弘摎(コウキュウ)を徐紹と孫彧に同伴させ、臣従を受け入れる旨を伝えさせる。その手紙は『文頭に二度も白げる(もうしあげる)とあり、名だけ記して姓は記さない。』という書き方で、これは君主としての手紙ではなく、むしろ家臣としての手紙に近い。しかし、こういう外交は孫権も行った事であり、プライドを棄てても国力を回復させるためならば、必要であろう。ただ孫晧が、完全に割り切って、この臣従を受け入れたかというとそうでもなさそうである。それが証拠に、徐紹は途中で呉に連れ戻されて殺され、一族は建安に強制移住をさせられている。徐紹が魏の政治を賞賛していたから・・・という事であるが、自分の意志と反して、臣従を受け入れざるを得ない状況に対する怒りが徐紹に向けられた・・という感じである。
    • (注)えーっとw勘繰りすぎかなぁと。徐紹と孫彧は呉を帰属させるため「大手を振って帰ってきた埋伏の毒」であり、放置すると呉内部に司馬氏親和会wを作って政権を揺さぶる可能性が高い。殺害の上、一族強制移住なんて当たり前。曹奐伝に徐紹・孫彧返還の詔が載っているが、そこにも「必ずしも呉は帰国を認めまいが・・」とある。帰国を認めたのは蜀が滅亡し、交州が離反しているという危機的状況にあり、もし本気で司馬氏が呉を滅ぼす気なら滅びてもおかしくない状況にあるからである。表面上は受け入れつつ、影響力が及ばないようにするという、極めて政治的な判断と思える。
  • 所で、孫晧の臣従の使者の紀陟と弘摎であるが、洛陽に到着した時に、司馬昭が死去してしまうという事件にぶち当たってしまい、そのまま呉に帰還する事となる。そしてその年の12月、ついに司馬炎が魏から禅譲を受け、西晋王朝を開くこととなる。いよいよ、三国時代も最終局面に至った。魏・呉・蜀の三国のうち、残るは呉のみである。
  • となると晋が呉征圧に動き出すのは時間の問題と思われるのだが、実際には晋はすぐには呉征圧には動き出さない。これは呉の国力を恐れていたのではなく、もっぱら晋内部の意見の対立が原因らしい。晋内部で征呉派と反征呉派があり、その派閥の対立が晋による呉征圧を遅れさせたのである。そういう意味では孫晧はラッキーだったのかもしれない。晋に怯えつつも、皇帝として16年も好き勝手できたのだから・・・・。