【 歪んだ愛情 】
  • 孫皓が皇帝に就いて,まず始めにやったこと・・・・。それは父・孫和の名誉回復である。孫皓は264年,9月父・孫和に昭献皇帝とおくり名をし,母・可姫を昭献皇后とした(なぜかその後,急に文皇帝と言い改めた。恐らく,献という字を嫌ったのだろう。)。本来,孫和は皇太子ではあっても,皇帝として在位していなかったのだから,皇帝ではない。だから皇帝としておくり名をするのは論理的に間違っている。だがそれに加え,孫皓は,『呉書』の撰述を行っていた韋曜に対して,孫和の本紀を立てるように指示していた。韋曜は,皇帝でない人の本紀は立てられないとして受け付けなかったのだが,この事が後の韋曜惨殺の一因となる。
  • 孫晧の父・孫和への愛情が,尋常な物ではない事を示す逸話がある。
    孫皓は即位すると,孫和を鳥程の明陵に葬った。そこからが凄まじい。孫晧は,墓守のために200家以上の園邑(墓守の住む土地の事か?)を作り,さらに令と丞(墓を守る役目をする官僚)をおいて守護させた。皇帝の墓でもないのに(孫晧は皇帝だと思っているが)そこまでの警護をするのは,すでにオーバー過ぎる。が,まあここまでは許そう。ちなみに孫権の墓にそこまでの警護がついたという記述はどこにもない。
  • まだまだ続く。孫晧は呉郡・丹楊郡から9の県を集め,呉興郡を作り鳥程に首都をおいて,孫和へ季節ごとの祭礼をさせた。さらに,役人から孫和の廟を建てようという上奏が出る。これを喜んだ孫晧は薛詡(せっく)に命じて廟を作らせ清廟と名付けた。267年の12月には,守大匠(建設大臣代行)の薛詡,守丞相(丞相代行)の孟仁(もうじん)と大常(神祇官)の姚信(ようしん)を引き連れて,それに官兵2000人に天子の乗り物を用意,明陵から孫和の魂を迎えて都の清廟に移した。孫和の魂が到着すると,陸凱に命じて郊外で祀りを行った。孫皓自身も清廟近くの金城で野宿する。翌日には礼拝し,廟の前でむせび泣いた。それでも孫晧の孫和への気持ちは収まらない。なんと孫晧は七日間で三度の祭りを行ったのである。ここまで来ると,すでに常軌を逸している。見るに見かねた官僚の一人が,礼拝はやりすぎると返って魂を軽んじる事になると進言。それでも納得のいかない孫晧は,巫女に孫和の魂の様子を聞いて,巫女が「文皇帝の魂は安らかでいらっしゃいますから,大丈夫です。」と言うのを聞いて涙にくれ,やっと礼拝をやめたのである。ここまでやるか・・・・・としか言いようがない。好意的に解釈すれば,父を皇帝として認知させる事で,自らの正統性を高めようとしたとも考えられなくはないが,それでも行き過ぎである。返って逆効果だろう。韋曜のように道理を重んじる人から見ると,孫晧の行動は,常識を逸脱しているとしか見えない。
  • さらに,孫皓の父・母への愛情は,留まるところがなかった。孫皓は孫和の母・王夫人にまで遡り,彼女を大懿皇后と呼び,三人の弟たちを列侯に封じた。さらに孫皓は母の可姫を皇太后にした。そこでジャマになったのが,元の皇太后である孫休の妻・朱夫人。結局,朱夫人は皇太后の座を追われ,皇后に位を落とされる事となる。さらに孫休の息子たちをそれぞれ王として地方に封印した。もう結末は見えるだろうが,朱夫人と孫休の息子たちは後に惨殺されることとなる。
    • (注)呉に顧悌という人物がいる(呉書外伝参照)。この人物、立派な人物だと評判を得ている。この顧悌は、父の死に際して五日間一滴の水も飲まず、葬儀の後は壁に棺の絵を描いてその下に霊座を設けて、それに向かって泣き、喪が明ける前に死んだ。現在の価値観から見ると「異常」としか思えないが、当時はこれで立派な人物と言われている。何が言いたいかというと、上記の孫晧の行動が異常だったかどうか?は分からないということである。むしろ孫晧は孝の精神に充ち溢れた立派な人だと映った可能性もある。この記事は孫晧伝ではなく、孫和伝に書かれており、それに対する批評も批判の注もない。
  • こう見ると,孫晧の異常さがはっきりと見て取れるが,それでも即位した頃の孫晧は,父・母への異常なほどの愛は見せたものの,全体としては名君として映っていたらしい。江表伝の注には,孫晧は即位後,思いやりのある詔を下して,士人や民衆の生活を憐れみ,国庫を開いて貧しい民衆を救い,宮女たちを解放し,宮殿に飼われている獣たちを逃がした,とある。江表伝の注だから,完全に信頼は出来ないし,その詔の文がない以上,本当かどうかは知る由もない。が,もしかしたら本当かも?と思わせるのは,その後に出した孫晧の大赦の詔の回数の多さだろうか?孫晧はその治世の中で数多くの恩赦を行っているのである。まるで自らの暴虐の穴を埋めるように・・・・・。