【 孫家・その後 】
  • 280年、2月15日。建業にて孫晧の降伏が行われた。王濬は、自ら縄につき棺桶を背負ってきた孫晧の縄をほどき、棺桶を焼いて本陣にて会見を行った。その時、王濬は呉の地図・戸籍を手に入れた。それによると、呉は4つの州(揚州・荊州・広州・交州)・43の郡・313の県を所持し、戸数は52万3千。役人の数は3万2千人、兵士が23万人、人口は230万人。兵糧の備蓄は280万石、所有戦艦が5千艘、後宮に仕える女官は5千人だったという。呉の初期の人口は150万程度だったことを考えても、江南は孫呉によって開拓されたと言って良いだろう。
  • 晋に降伏した孫晧は帰命侯の爵位をもらい、太子の孫瑾は中郎に、また孫晧によって封じられた21人の王は皆、郎中に任じられた。孫晧の帰命侯の爵位については、陳寿も孫盛も度が過ぎた寛容であると手厳しい。晋代を生きた陳寿がここまで言い放つのだから、孫晧の評判はその頃から最悪だったのである。その後、孫晧は284年か285年に洛陽で死去した。
  • その後、孫家の人間が政治の表舞台に出てくることはなかった。が、数名の孫家ゆかりの人物の名を晋書の中に見ることが出来る。(全面的に【解体晋書】様のご協力によるものです。ありがとうございましたm(_)mペコリ)
  • まずは、孫晧の息子・孫璠。元帝の時代に反乱を起こして誅殺されている。孫晧の息子たちのうち、数名は皇帝の側近として仕えていたようだ。同じく、孫晧の息子として、孫虞(そんぐ)が孫瑾の弟として名が挙っている。彼も孫晧降伏後、郎中に任じられた一人である。さらに太安年間に銭檜という人物が反乱を起こした時、呉王に祭り上げられ殺されてしまった孫晧の子・孫充(そんじゅう)という人がいるようである。他には、愍帝のころ反乱して殺された孫晧の族人・孫弼、孫氏に嫁いだ女性の孫である孫邁、時の政府を誹謗したと訴えられた呉の人・孫世山、孫権の族孫の娘であり虞潭という人物の母である孫氏・・・と言った面々の名を見ることが出来る。さらに孫家の亜流では、孫晧の降伏より先に晋に逃亡した孫秀の息子・孫倹や、孫憤(なつかしいですねー^^;、孫策伝で出てきた孫策の叔父です。)の曾孫の孫恵らも晋に仕えているようだ。
  • さて、さらに時代を進める。現代に孫家の子孫は生きているのだろうか?NHKのスペシャル番組で、現代に孔明の子孫を名乗る村がある事が紹介されてたが、実は孫家の子孫が住む村も存在しているのである。浙江省の富陽龍門古鎮。ここには、今でも孫家の子孫が集まって住んでいると言う。まあ、実際に孫氏の子孫かどうかはあまりにも時代が離れすぎていて、確認は不可能だろう。だが、現在にも孫氏の子孫を名乗る人々が存在しているのは、呉者としては嬉しい事である。  -孫皓伝 了-