【 孫晧の女性遍歴 】
    • 【孫晧は後宮に数千人の女性を入れ,新しい宮女を選んで後宮に入れることをやめなかった。】
    これ,孫晧伝の陳寿の本文である。陳寿は比較的、その人物の長所と短所を冷静に評価する人物なのだが,孫晧と董卓に関しては、実に辛辣である。まあ,それだけ孫晧にはプラス評価が難しいということだろう。後宮に数千人も宮女がいたというのはにわかに信じがたいが、逆に言えばそれを否定できる根拠もない訳である。ここでは孫晧の女性遍歴について述べたい。
  • 孫晧の正室は滕夫人。孫晧が鳥程候だった頃に妻となっている。しかし、孫晧が皇帝となってしばらくすると、滕夫人の父・滕牧が群臣に押し立てられて諌言をすることが多くなった事もあり、孫晧の滕夫人への寵愛は薄れていったという。その後,滕牧は交州の蒼梧郡に強制移住させられ、滕夫人も廃位される寸前であったが、孫晧の母、可姫の口添えでなんとか廃位にはならずにすんだ。が、皇后つきの官僚は名目だけ数をそろえただけだったという。
  • 滕夫人の他にも、孫晧の妻として伝が立てられていない人物が何人かいる。そのうち特に強烈なのは、張布の娘であろう。孫晧は張布の娘を特に気に入り、彼女を美人(皇妃の一つ)にした。ある日、孫晧は張布の娘に『お前の父はどこにいるんだ?』と聞いた。すると張布の娘は『悪人に殺されて、今はどこにもいません。』と答えたという。張布は孫晧に殺されており、その本人の目の前でそんな事を言うのだから凄まじい。もちろん孫晧は激怒し、棒で彼女を撃ち殺した。まだ続きがある。実にここからが孫晧らしい。孫晧は彼女を撃ち殺したにも関わらず、後になって彼女が懐かしくなり、張布に彼女以外で娘がいるか捜させたというのである。すると、姉が馮朝(ふうちょう)の息子・馮純(ふうじゅん)に嫁いでいた事が分かった。孫晧は早速彼女を後宮に入れ、左夫人とする。孫晧の彼女への溺愛は凄まじく、昼夜の区別亡く,彼女を溺愛した。さらに黄金の髪飾りやかんざしを作らせて、宮女たちに付けさせて相撲を取らせた。そんな事をやっているから、黄金の髪飾りやかんざしはすぐ壊れてしまい、そのたびに発注して作らせた。また職人たちもこの機会を利用して黄金をくすねたため、国庫はからっぽになったという。
  • 彼女が死ぬと、孫晧は嘆き悲しんで大きな塚を作り、莫大な金銀と共に埋葬した。その葬儀があまりにも豪奢だったので、人々は孫晧本人の葬儀と勘違いして、孫晧の甥・可都が孫晧に似ていた事から可都が後を継いだと噂になった。臨海太守の奚煕(けいき)はそのデマを真に受けて挙兵、可都の叔父・可植によって討伐されるというオマケまでついた。
  • 所が、これとよく似た話がもう一つある。270年に孫晧の左夫人の王氏が死去した時、孫晧は悲しみに暮れ、数ヶ月人々の前に出なかったため、孫晧は死んだという噂が流れたというのである。孫晧が死んだという噂と左夫人の葬儀が原因になっている点が酷似している。さらに、こちらの話もこのデマを信じた者がいる点も同じである。王氏の葬儀の後、孫晧の後を孫奮か上虞候の孫奉が皇帝となるだろうという噂が飛んだ。豫章太守の張俊はその噂を信じて、豫章にある孫奮の母・仲姫の墓を掃除したが、孫晧はこれを聞いて張俊を車裂きの刑にした。
  • 前者の張布の娘の話は『江表伝』からの引用で、後者の王氏の話は陳寿の本文である点から、後者の方が信憑性は高いだろう。孫晧が死んだという噂の話はもう一つある。孫和夫人可姫伝の中に、可氏の横暴に苦しんだ人々が、『孫皓はとっくに死んでおり,今皇帝になっているのは可氏の息子だ。』と噂したという話が載っているのである。もし本当に孫晧は途中で死んでおり、影武者が孫晧に成り代わっていたとしたら??結構面白い話ではある。小説のネタとしてはかなり想像力をそそられるのだが、ちょっと時代がマイナー過ぎるか^^;。いずれにしても、孫晧に死んでほしいという人々の願いがこうしたデマの元になっているのは間違えないだろう。