【 武昌遷都 】
- 265年9月、孫晧は武昌への遷都を行った。武昌は呉の荊州方面の中心都市であり、孫権も武昌に遷都を行った事がある。孫権の武昌遷都は、荊州占領直後であり、荊州方面の経営に力を入れていた時期に行われている。では孫晧の武昌遷都はどういう意味があるのだろうか?
- まず、武昌遷都を上奏したのは西陵の督・歩闡である。西陵というと、蜀方面からの侵攻に備える前線基地であり、その督である歩闡が上奏したとなると、蜀方面からの侵攻に対する防衛上の観点からの武昌遷都の上奏ではないか?と考えられる。またその直後、孫晧が荊州南部の郡の新設を行っている事から、おそらくこの時期、荊州南部の山越の動きが再び活発化していたのでは?という推測も成り立つ。
- 所が、この武昌遷都に反対していた人物がいる。荊州牧・鎮西大将軍、陸凱(りくがい)である。陸凱伝を見ると長いながーい、孫晧の武昌遷都に対する諌めの書があるのである。(ただしこの上奏文は実際には孫晧には見せていない可能性が高い。)陸凱から見ると、この武昌遷都は資金の浪費以外の何者でもない。そもそも、晋と呉の国力差は開く一方なのだから、今すべきは農政であり呉の国力を回復させる事、というのが陸凱の持論になっているのである。
- 孫晧と陸凱の考えの違いは、この後に起きた事件でもはっきりと分かる。266年、孫晧は死亡した晋の司馬昭への追悼の使者を送るのだが、その使者であった丁忠(ていちゅう)は帰国すると、『弋陽(よくよう)は備えがないから、すぐ攻め取れますよ。』という進言を行ったのである。それを聞いて孫晧は喜んで遠征軍を起こそうとする。が、これに待ったをかけたのが、またしても陸凱である。陸凱は『弋陽のような小さな小都市を落としたとして、なんのメリットがあるのか理解しかねる。』と、まるで話にならんと一蹴する。群臣たちの意見もほぼ陸凱寄りだったらしく、結局この行軍はうやむやのうちに取りやめになるのだが、孫晧にこうした鬱憤を溜めさせるのはまずかった。
- 孫晧は丁忠の帰国の宴の最中に、常侍の王蕃(おうはん)を無礼があったとして、正殿の前庭で切り捨ててしまったのである。王蕃伝には、王蕃は主君の意向に逆らうような意見も述べたとあり、弋陽討伐にも陸凱らと一緒になって反対した可能性が高いだろう。孫晧は陸凱には処罰を加える事はできないのだが、王蕃は別だったのである。いよいよ、孫晧の暴虐性が呉内部にも外部にも、聞こえるようになってきていた。
▲▼