【 最後の守護神 】
  • 以前にも書いたが、西晋王朝は蜀を滅ぼした魏から禅譲で国を譲り受けた王朝であり、もし西晋が統一王朝を目指すなら、残る呉を滅ぼすというのは第一目標であるはずであった。しかし、西晋王朝成立後すぐに征呉の動きが見られなかったのは、呉強しと見ていたからではなく、もっぱら晋内部の問題に原因があった。しかし、いつまでも征呉の動きがないはずもなく、ついに269年には、ついに羊祜が都督荊州諸軍事として襄陽に赴任してくる。それに呼応するかのように、呉に一大危機が訪れるのである。
  • 西陵は蜀滅亡後は益州方面からの晋の攻撃に対する一大拠点であった。その西陵には、歩隲以来、数十年に渡り歩家が守備についており、孫晧の時代には歩闡が西陵の督として守備軍を率いていた。所が、272年に孫晧は突然、歩闡を中央に召し返えす辞令を下した。歩闡はこれに対して過敏な反応を示す。孫晧が讒言によって自分を処罰しようとしていると考え、西陵城まるごとで晋への投降を決めたのである。この歩闡の投降は、諸葛誕の乱の時、全一族がこぞって魏に投降したのと同等の規模の大きな投降事件となる。晋は、歩闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・交州牧・宜都公に封じる。まあ,あげられるだけの官位は全部あげたという感じである。さらに歩闡の救援のために羊祜と荊州刺史の楊肇を向かわせていた。
  • 内には、難攻不落の要塞・西陵城に立て籠もる歩闡、そして外からは晋の都督荊州諸軍事・羊祜。まさに絶体絶命であった。この難局に立ち向かうのは、最後の守護神・鎮軍大将軍・陸抗である。陸抗の勝機はただ一つ。自らが整備して難攻不落の要塞とした西陵城を落とし、さらに押し寄せる晋の大軍を破る事。ただそれだけであった。
  • 歩闡の投降の報を聞いた陸抗は、即日、西陵に向かった。そして西陵に到着すると、陸抗は西陵城を攻撃するのではなく、西陵城の完全包囲陣を築き始めた。諸将たちは即刻、西陵城に攻撃を掛けるべきだと進言するが、陸抗はそれ許さない。陸抗には西陵城が簡単に落ちるような城ではなく、西陵城を包囲しつつ、晋軍の攻撃に備えなくてはならない事が分っていたのだ。こうして、西陵城郊外に晋軍に対する防衛陣形を強行軍で完成させたのである。
  • やがて、羊祜は軍を率いて江陵に攻撃をかけた。江陵は西陵の下流に当たる。江陵は荊州の一大防衛拠点であり、諸将は西陵から江陵に移動して防備につくべきだとこぞって進言をする。しかし、これも『江陵より西陵の方が重要で、しかも江陵は万全な防御態勢が整っているから、動くべきではない。』として、陸抗は動かない。江陵も重要拠点には違いなかったが、西陵が晋の手に落ちることは、荊州南部の五渓の異民族たちの離反も確実となり、一気に呉の荊州支配が破綻する事を意味していたのである。陸抗は江陵督の張咸に命じて、堤防を築かせて水をせき止め、江陵城への敵襲と内部からの離反を防がせた。
  • さらに西晋軍の怒濤の攻撃は続く。ついに楊肇が西陵に到着、さらに蜀方面から巴東監軍の徐胤(じょいん)が長江を下って、建平城に攻撃をかける。陸抗は公安督の孫遵(そんじゅん)に長江南岸を移動させて、羊祜の渡河を防がせると共に、水軍督の留慮(りゅうりょ)・鎮西将軍の朱琬に徐胤の動きを封じさせた。そして自らは西陵で楊肇軍と対峙したのである。
  • 楊肇軍と陸抗軍の対峙が続く中、味方の部将の離反が起きる。朱喬(しゅきょう)と兪賛(ゆさん)が晋軍に投降したのである。しかも二名は古参の部将であった。が、陸抗はこれすらも逆手に取る。歴戦の部将が離反した以上、まず陣内で一番弱い所を攻めてくると考え、一番の弱点である異民族軍の陣地を交代せて、その場所に古参の部将を守備させたのである。果たして、楊肇軍は、元異民族軍の陣地に攻撃を仕掛けたが、これは正に飛んで火に入る夏の虫状態。万全の迎撃体制を整えていた陸抗軍の猛攻にさらされ、楊肇軍の攻撃は失敗する。やがて、対峙する事数ヶ月が過ぎ、楊肇は万策尽き果てて、退却を始める。
  • 西陵城の歩闡は、陸抗が楊肇を追撃に出る瞬間が最後の勝機と考えて、出撃の隙をうかがっていた。しかし、陸抗は最後まで西陵の完全包囲を解く事はなかった。陸抗は楊肇軍への攻撃の太鼓を大々的に鳴らして追撃の姿勢を見せる。これを見て楊肇軍は一斉に退却を始めるが、陸抗は大軍を動かすことはなく、軽装の部隊に追撃させただけであった。かくして、歩闡は出撃のタイミングを逃し、孤立無援となる。援軍のあてを無くした西陵城の士気は下がり、陸抗はついに西陵城を落とすのに成功したのである。
  • さて、西陵城攻防戦のような、前に歩闡軍、後ろに西晋軍という二方面作戦の場合、まずは各個撃破が優先だろう。しかし、陸抗には各個撃破できる条件が揃っていなかった。つまり城をすぐに落とすこともできず、前面に西陵城に立て籠もる歩闡を威嚇しながら、西晋軍と対峙さぜるを得なかったのである。戦略的に見て、かなり不利な状況であったと言わざるを得ない。しかし、陸抗は内と外に敵を迎え撃つという高度な戦略を見事に成功させたのである。ある意味、陸抗は、周瑜の赤壁の戦い、呂蒙の荊州奪回、陸遜の夷陵の戦いの時以上に、不利な条件を見事に跳ね返したと言える。
  • だが、内部的には陸抗が絶対絶命の状況を打破したことで、孫晧は呉が西晋に征圧される事はないと慢心を起こし、今後さらに暴虐の本性を表す事になってしまう。陸抗が敵を倒せば倒すほど、中央府は腐敗を促進させた。陸抗が悲劇の名将と言われる由縁である。