【 張布・濮陽興誅殺 】
  • 孫晧伝に、『孫晧が帝位に就くと粗暴で驕慢となり酒や女色を好んだため、張布と濮陽興は孫晧を帝位に就けた事を悔やんだ』とある。事実、張布・濮陽興はこの後、孫晧を廃位しようとしたとされ、失脚の上惨殺されているのであるが、孫晧と張布らの間に一体どういう確執があったのだろうか?
  • まず、この時点で孫晧ははっきりと暴虐と言える行動は取っていない。もしかしたら酒癖とか女色とか性癖上の問題があったのかもしれないが、それだけなら張布らが問題にする内容ではない。自重するように諌言があればそれで済む。また配下でも、この時点では駆逐された者はいない。要するに廃位を考えるほどの理由はないのである。果たして張布と濮陽興は本当に孫晧の暴虐性を見て、孫晧の廃位を考えていたのだろうか。
  • 個人的な推測になるが、おそらく張布と濮陽興の失脚は孫晧の暴虐が原因ではない。むしろ旧体制派と新体制派の凌ぎ合いの中で生まれた確執が原因と思われるのである。旧体制派とは張布・濮陽興、そして孫休夫人・朱夫人だ。新体制派の中心は万彧。もちろん孫晧にしても、いつまでも孫休政権の名残りが居座っているのは、気持ちの良い話ではない。ましてや、孫晧のように他人への不信感が根本的に根付いている人間にとっては、まず排除せねばならない人物たちになるのではないだろうか?
  • だから、孫晧が帝位について最初の被害者は孫休一派であった。まずは朱夫人が皇后に落とされたのを皮切りに、旧体制の中心人物だった張布・濮陽興が万彧の讒言から誅殺される。朱夫人と孫休の遺児たちは、265年に迫害の中で死去。朱夫人が死んだのが正殿でなく、その葬儀も小さな建物の中で行われた、とあることからも、朱夫人の死が普通の死に方で無いことは間違えない。また孫休の息子たちも呉の小さな城に軟禁された挙げ句、年長者の二人は殺害される事となる。また、こうした孫晧の動きから自分の行く末を察知した者もいる。石偉(せきい)は孫休の代に光禄勲となった人物であるが、孫晧が即位してまもなく持病を理由に辞職しているのである。保身のためであることは一目瞭然と言えるだろう。
  • こうして、旧体制からの引き継ぎメンバーの失脚と入れ替わるように政権の中枢に上がってきたのは、孫晧の親族たちであった。太皇后には朱夫人に替わって、孫晧の母・何姫が就任。皇后の滕夫人の父・滕牧、それに可洪・可蒋・可植ら何姫の弟たち、つまり孫晧の外戚がそれぞれ侯となる。特に外戚にあたる何一族は今後、数々の問題をはらんでいく事になる。外戚が力を持つ政権にロクな政権はないのであるが・・・・