【 孫晧にまつわる虚と実 】
- 267年6月、孫晧は建業に新しい宮殿・顕明宮を建てた。これで孫晧は家臣の譴責・後宮の女官の増員・それに無駄な遷都・宮殿造りと、一通り暴君のやりそうな事は全てやってくれた事になる。逆に言えば暴君としては孫晧は個性がないとも言えそうだ。その辺がちょっと引っかかる部分でもある。今回はその辺を考えてみたい。
- 元々建業には孫権が建てた太初宮という宮殿があった。例の孫権が武昌宮の木材を再利用して、増築した宮殿である。【太康三年地記】によると太初宮は720メートル四方。故宮が縦が約700メートル・横が1キロくらいになる事を考えれば、まあ宮殿としては普通の大きさかもしれない。では顕明宮はどれくらいの大きさかというと、1200メートル四方。これは確かにでかい。これだけの物をこの時期に作る必要があるかと言われるとないとしか言いようがない。
- これに例によって【江表伝】からの注がついている。それによると、孫晧は郡守以下の官僚全員に山に入らせて木材の伐採の監督に当たらせ、多くの墳墓を壊して山や楼閣を作り、工芸の巧みをこらして宮殿を造らせたので出費が巨万の額にのぼったという。それに対して陸凱は必死に諫めたが孫晧は聞かなかった。ということになっている。
- どうもこの部分が怪しい気がするのだ。先に書いた【孫晧の女性遍歴】編でも、孫晧の左夫人の葬儀が豪奢だったとか、黄金のかんざしを作らせて国庫が空になったとかある。すると孫晧は何回国庫を空にしたことになるのだろう?そもそも【江表伝】は呉を持ち上げる書であり、孫堅・孫策・孫権は良く書いているが、亡国の主である孫晧は必要以上に貶めている感じがするのである。
- だから、個人的には孫晧の暴虐性をことさらに強調する記述で陳寿の本文でない部分は、かなり怪しいと見て良いと思っている。例えば、殺した家臣の死骸を狼に食わせたとか、この顕明宮の費用に関する部分とかである。これは孫晧の虚の部分、つまり誇張の部分だろう。では実の部分とは何かというと家臣の譴責・遷都・宮殿作りといった行動として現れている部分である。これは事実として動かしようがない部分であるから信憑性が高い。要するに孫晧は酷評されてしかるべき事はしているのだ。ただそれに尾ひれがついている感じは否めない。
- さて、この267年には右丞相の万彧が中央を離れ、巴丘の守備についている。この後、270年には再び建業に戻るが、272年には、孫晧から譴責を受け、悶死。その子弟たちは廬陵に強制移住となる。滕牧の場合もそうだが、孫晧の場合、中央にいた者が地方に出される時は、その人物はやばいと言って良さそうだ。
- これにも江表伝の注がついている。孫晧が出かけた時に、万彧と留平が『今回の御幸は急な事なので、もし孫晧様がお帰りにならない場合は、国家のためにも我々だけでも戻らなくてはならないだろう。』と相談した。それが孫晧の耳に入り、孫晧は宴会の時に留平と万彧の酒に毒を入れた。それに気付いた給仕の者が酒の量を減らしたので二人は助かった。が、万彧はその後自殺し、留平も憤りの余り一ヶ月後に死んだ、とある。真偽のほどはどうなのであろうか?孫晧伝にはこうした虚と実が混在しているのである。 ▲▼