【 そして誰もいなくなった 】
- 西陵攻防戦の勝利の後、陸抗は大司馬に任命され、荊州の守りにつく。その間、晋の都督荊州諸軍事・羊祜と陸抗の間に奇妙な友情が芽生えるという有名な美談がある。しかし、これはただの美談ではないと思っている。羊祜と陸抗の友情には裏があるのだ。凌ぎを削る徳の示し合い・・・そういう観点があるように思う。詳しくは陸抗伝で述べたい。
- こうして陸抗と羊祜が凌ぎを削ってにらみ合っている間にも、呉の中央政権の腐敗は進んでいく。時系列順にスキャンダルを追っていく。
- 272年、右丞相の万彧が譴責を受け悶死した。
- 佞臣・可定の悪事?が発覚したとして、誅殺された。孫晧は張布の場合と似ていると言って、可定を可布と呼ぶことにした。
- 273年、孫晧の妾の一人が部下を市場にやって、民衆の財貨を強奪させた。司市中朗将(字からして市場の管理責任者?)の陳声(ちんせい)は、市場で強奪を働いた者を処罰したが、逆に妾の讒言に会い、焼いたノコギリで首を切り落とされ、死体は四望山のふもとに棄てられた。
- 274年、会稽郡で章安公の孫奮が天子になるのではないか?という妖言がはやった。この事件の煽りを受け、孫奮の一族は誅殺、またこの事件で臨海太守の渓煕(けいき)・会稽太守の郭誕(かくたん)・豫章太守の張俊(ちょうしゅん)らが、巻き沿いを食らい、誅殺または懲役となっている。
- 276年、会稽太守の車俊(しゃしゅん)と湘東太守の張詠(ちょうえい)が所得税の一部を上納していないとして、斬首。また孫晧を諫めた尚書の熊睦(ゆうぼく)も撲殺した。
- 京下督(京城の守備隊長)の孫楷(そんかい)が晋に投降した。
- 277年、張淑(ちょうしゅく)という小役人が讒言誣告を盛んに行った事で司直中朗将となるが、悪事が暴露して、車裂きの刑になった。
- 279年、合浦の部将・郭馬(かくば)が、反乱を起こした。原因は孫晧が広州の戸籍を調べて、課税をしようとした事が発端である。孫晧は滕循(とうじゅん)・陶濬(とうしゅん)・交州牧・陶璜らに郭馬を討伐させた。
- これらは全て孫晧伝の陳寿の本文である。さらに他の伝を見ると、
- 侍中の張尚(ちょうしょう・張紘の孫)は、孫皓に琴を習うように言われたが、軽い言葉のやり取りから獄につながれ、その後建安に強制移住。のちに誅殺された。
- 選曹尚書の薛螢(せつけい・薛詡の弟)は、運河建築の任がうまく行かず、地方に出された。その後可定が誅殺されると、その煽りを食らい、広州に流罪。華覈(かかく)の口添えで召し返されるが、つまらん事でまた広州へ流罪。その後再び復帰させられ、孫晧の晋への降伏文を書かされるハメになる。
- 大司農の桜玄(ろうげん)は、国政を嘲笑したという讒言を受け、広州に流罪になり自殺した。
- 太子太傅の賀邵は、孫晧の暴虐を諌言。孫晧は桜玄と賀邵が国家批判をしたとして詰問を受ける。やがて許されるが、中風にかかったとして隠居。孫晧は賀邵は嘘をついて隠居したとして、賀邵を拷問にかけ、一族を臨海郡に流刑にした。
- 左国史の韋曜(いよう)は、執筆中の呉書の中に、孫晧の父・孫和の本紀を立てるように言われたが、皇帝になっていない人物の本紀は立てられないとして拒否した。後に、孫晧の韋曜への寵愛が薄れると、これまたつまらん事から、投獄されて誅殺された。
- 右国史の華覈(かかく)は、孫晧の顕明宮の造園を諫めた。(孫晧はなぜか、右と左の両国史の韋曜と華覈には、寛大である。普通ならこの諌言をした時点で二人とも誅殺されているだろう。二人が呉書の編算に関わっていたため、孫晧としても彼らを迫害する事での後世へのマイナスイメージを恐れたのだろうか?)その後、275年に譴責を受けて罷免となった。
- とまあ、孫晧によって譴責を受けた人物には事欠かないのである。ここで孫晧伝3の【まっとうな人事】で孫晧の皇帝就任時に昇進を受けた面々を思いだしてほしい。
- 施績(朱積) 天寿をまっとうする
- 丁奉 死後に一族が流罪
- 陸抗 死後に一族が流罪
- 陸凱 死後に一族が流罪
- 張布 讒言により誅殺
- 滕牧(とうぼく) 広州に流罪、途中で死亡
- 丁固(ていこ) 天寿を全うする
- 万彧 譴責を受け悶死
- 王蕃(おうはん) 宴席で孫晧に切られる
- 桜玄(ろうげん) 広州に流罪・自殺
- 郭逴 不明
- 薛螢(せっけい) 流刑→復帰を繰り返す
- 賀邵(がしょう) 臨海郡に流刑
- 韋曜(いよう) 投獄の上誅殺
- 屈幹(くつかん) 不明
- 屈恭(くつきょう)不明
- おまけ人事的だった屈幹と屈恭を除けば、14名中、8名が流罪・または誅殺。死後に一族が迫害された3名とその後が不明である郭逴を除けば、実にこのメンバーで天寿をまっとうできたのは、施績と丁固しかいない。(その二人も孫晧としっくり行っていなかった事は文面から読める所がある。)まさに、呉の人材は孫晧自身によって駆逐されたのである。
- また、このメンバーのうち、在官中に譴責を受けたメンバーを見ると面白い事が分る。全員、中央府に仕える文官なのだ。軍権を持ち、国境の守備を担当していた施績・丁奉・陸抗・陸凱らは、孫晧を廃位しようとしたとか、かなり強烈な諌言をしたという記述があるにも関わらず、孫晧は彼らの在官中には全く手を下していないのである。できたのは、死後にその子孫を迫害するくらいであった。
- これがどういう意味を持つのか?ただの想像にすぎないが、軍権を持つ有力豪族には孫晧は怖くて手が出せなかったのではないだろうか?逆に中央府に仕える者たちは、いつ譴責を受けるか気が気でなかっただろう。歩闡が反乱を決意したのも、中央に召し返される事を恐れたからであった。
- さらに国境守備部隊の晋への投降はひっきりなしに起きていた。呉書には孫楷と孫秀の逃亡が本紀に書かれているが、晋書の方には、可崇(かすう,孫秀の部将)・平虜将軍孟泰(もうたい)・偏将軍王嗣(おうし)・威北将軍厳聰(げんたん)、揚威将軍厳整(げんせい)、偏将軍朱買(しゅばい)・邵凱(しょうがい)・夏祥(かしょう)・昭武将軍劉翻(りゅうほん)・万武(ばんぶ)・祖始(そし)と言った面々が晋に投降したという記述があるようだ。(玉川さんのHP【玉屋】参照の事)これらの投降は主に270年代に入った頃から、多く起きている。沈みゆく船から逃げるように。
- そんな中、かろうじて呉を守っていた陸抗は、273年秋に呉を憂いながら死去する。こうして呉を守っていた柱石は全てなくなり、簡単な衝撃を加えるだけで、一気に崩れ落ちる状況になっていたのである。
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