【 孫堅の出生 】
- 孫堅・字は文台。呉郡・富春の生まれ。呉書孫堅伝の冒頭には『おそらく孫武の子孫なのだろう』という妙な書き出しがある。孫一族が孫武の子孫だというのはうさんくさいを通り越して間違えなくギミック。劉備が中山靖王劉勝の子孫を名乗ったように箔をつけるための方策ですね。でも一国の皇帝が言ってることを嘘だとも書けないし断定もできないのでこんな書き方になったんでしょうね。
- また読んでいて気がつくのは孫堅の家系について全く記述がないこと。曹操伝では曹操から数世代遡って記述がなされ子供の頃の逸話まであるし家柄として悪くはなかったことがわかる。家系がうさん臭かろうと想像にかたくない劉備でも祖父は劉雄・父は劉弘と記述されその官位にも触れられている。下級の役人だったこともわかる。にも関わらず孫堅伝には父といっしょに船に乗って出かけた時に・・・・というように父すら名前がない。また子供の頃の逸話もなく,いきなり17歳の時の海賊退治の逸話になっている。こりゃ一体どういう訳なんだろうか?孫権でも祖父の名前と何やっていたかくらい分かろうに。推測としては以下のことが考えられます。
- 陳寿が皇帝である孫権の家系は父が孫堅・兄が孫策でどういう人物かよく分かってるから孫堅の父まで遡って記述する必要なしと判断した。
- 祖父の名前と何やっていたかはわかるのだが伝に入れると孫家のマイナスイメージになるので意図的に韋昭が書いた段階で省かれていた。
- マジで誰か分からない^^;
- 1の可能性は孫権は父の孫堅に対し武烈皇帝と贈り名をしている訳だから孫堅は一応皇帝であることを考えると薄いように思う。確かに呉に対しては陳寿はあっさりとしているが皇帝に対する礼を欠くような記述はしないと思う。
- 3だとしたら孫家は相当にアンダーグラウンドな家系だったことにならないだろうか?そこまで奇怪な家柄とも思い難い。
- となると2の可能性が高くないだろうか?祖父はただの町人だったとか商人だったとかなると皇帝の家柄としてマイナスではあるし書くべきではないのかもしれない。
- 裴松之の注には呉書曰く孫堅の家柄は代々呉で役人をしていたとある。それならば名前くらい分かりそうなものだ。おそらく役人だったとしても相当に下っ端なのかもしれない。
- (注)孫堅の父については、宋代に書かれた【異苑】という書物の中に瓜売りをしていた孫鐘という人物の名が見られる。ただし挿話であり、信憑性は低いが、いくつかの文献に孫堅の父として孫鐘という名は見られ、なんらかのソースがある可能性が高い。いずれにしても、孫家の先祖についてはただの町人である可能性は高いと思われる。
- (注)追加の注。今になって読み返すと、「陳寿の呉書」は「韋昭の呉書」の中から信憑性が低いと思われる記述を切り落として書いているという観点が欠けている。裴松之注にもあるように、「韋昭の呉書」には、「代々役人をやっていた」と書かれていた。当然、死後皇帝となった孫堅の家系について、詳細がなかったなんてことは考えにくい。だが、当然、色々と「盛られた」話となる。
- 家柄として普通の町人っぽいことは孫堅の出生の逸話でもなんとなく分かる。裴松之の注の中に孫堅の母が孫堅を身ごもった時に自分のはらわたが飛び出して呉の城門に巻きつく夢を見たというエピソードが載っている(豊臣秀吉の母が日輪が体の中に飛び込む夢を見て秀吉を身ごもったという逸話を思い出しますね^^;。時代が変わっても身分の低い家柄に箔をつけるにはこういう方法しかないのかもしれません)しかし気になったのはその後。孫堅の母がその夢を見たことを話した相手というのが隣に住んでいるオバチャンなのである^^;。隣のオバチャンって・・・・^^;。皇帝の家柄を表す紀伝に載せる文面なのだろうか^^;。
- さらに推測すれば書くとやばいのかもしれない。孫家の代々の性格を見るにかなり武辺ものが揃ってしまうし,孫堅の父もかなりの確率でヤンチャだったとも考えられる。海賊まがいの仕事をこなしていた可能性がないわけでもなかろう。
- (注)秘本三国志の著者として有名な陳瞬臣さんは、呉・三国志の著者である伴さんとの対談の中で、「孫氏の先祖は海賊」と言い切っている。どういうソースがあるのか不明だが、中国史に造詣の深い陳氏の発言であるだけに無視はできない。
- いずれにしても祖父の代から中央政界で活躍していた曹操・下級で落ちぶれていたにしろ劉姓で役人の家柄だった劉備と比べて孫家の家柄は最も最下級と言える。つまり孫堅が世に出るに当たっては自らの才覚のみでのし上がったと言えるのである。 ▼