【 他伝に見る孫堅伝 】
- 孫堅の名が出てくるのは呉書孫堅伝だけでなく他の伝にもある。ここでは他伝に出てくる孫堅の動きについて書いてみたい。
- まずは『魏書 曹操伝』
汝南・潁川(えいせん)の黄巾賊の何儀・劉辟らは始めは袁術に味方していたが,今度は孫堅に近づいていた。196年,太祖(曹操)は軍を進めて彼らを討ち・・・・
196年というとすでに孫堅はこの世になく,孫策が江東に勢力を広めていた頃である。黄巾の残党が孫堅に近づいたというのはおかしい。あるとすれば孫堅が袁術の命令で豫州で袁紹と争っていた時期に黄巾の残党たちと接触があったのだろうか?また196年は孫策は江東の制覇の最中で汝南の黄巾の残党に手を出している余裕はないと思うのだが?袁術対策として孫策が黄巾の残党に手を回したのだろうか?なんとも解釈しずらい記述である。ただの誤植かもしれない。
(注)筑摩の訳し方が悪いらしい(笑)正しくは、【汝南・潁川(えいせん)の黄巾賊の何儀・劉辟らは始めは袁術に味方したり孫堅に味方したりしていた。】 - 次は『魏書 袁術伝』
長沙太守の孫堅が南陽太守の張咨を殺害したため南陽郡を支配できた。
なるほどそういう背景があったのか。もしかすると張咨を殺害することが反董卓連合への参加の条件だったのかもしれないですね。 - 『魏書 劉表伝』
袁術は孫堅と同盟して南北から荊州を奪おうとし・・孫堅が流れ矢に当たって死亡したので袁術は劉表に勝てなかった。
南北からというと長沙からも軍を出していたのでしょうね。結構この時の荊州攻撃は勝算が高かったと思えます。なんとも孫堅の死は痛恨の一撃です。なんとなく劉表の策謀の影が見えるような?? - 『魏書 公孫瓉伝』
袁術は孫堅を陽城に駐屯させ董卓に当たらせていたが,袁紹は周昂(しゅうこう)に命じてその陣地を奪取させた。袁術は公孫越と孫堅を派遣して周昂を攻撃したが勝てず公孫越は流れ矢に当たって戦死した。公孫瓉は弟が死んだのは袁紹のせいだと激怒し・・・・
袁家の争いの記述ですね。豫州刺史に袁紹が指名したのは周禺(しゅうぐ)。周禺軍はさんざんに打ち負かしたと孫堅伝にありますが?この後の記述で周昂は豫州刺史に任じられたことが書かれています。さらに孫堅伝には周禺は孫堅に勝てず.九江太守の兄の周昂が袁術の攻撃を受けたので救援に向かったが殺されたとあり,この辺の記述は混乱が見られます。読めるのは袁術側に公孫瓉も付いていたということ。各諸侯が袁紹側と袁術側に分かれて戦っていたことが分かります。ちなみに曹操は始め袁紹側でした。
また公孫瓉が袁紹の罪を上奏した文の中に
『長沙太守・豫州刺史の孫堅は董卓を蹴散らし,皇帝の墓を清めその功績は計り知れない。それなのに袁紹は周昂に豫州刺史の位を盗み取らせ軍糧を断ち切り,関中(長安のことでしょう)に進入できなくして董卓を討ち損じさせた・・・・・』
とあります。同じ辺境の軍閥同士通じ合う所があるのでしょうか^^;。ベタ誉めです^^;。それと,もしかしたら袁術と孫堅の間を裂こうとしたのは袁紹が黒幕なのかもしれませんね。 - 『魏書 公孫度伝』
『孫権の一族は,父の孫堅が力ずくで州郡を奪い取ったように悪人の一族である。魏はそれらの罪を許し臣従を許可したのだが,やはり狼の子は狼。血は争えない・・・・』
時代はかなり後になりますが孫権は公孫淵と結んで南北から魏を攻めようとします。それに対する魏の非難文の中に孫堅の名が出てきます。やはり荊州刺史殺害はその後にも非難材料にされるほど無道だったと言っていいでしょうね。私には孫堅が漢に忠義をつくす人物とは思えません。野心家です。 - 『魏書 桓階伝』
太守の孫堅は桓階を推挙したが,桓階は父が死んだので故郷に戻っていた。孫堅が戦死した時,桓階は危険を犯して劉表の元に赴き,孫堅の遺体を受け取らせてもらいたいと願い出て劉表は義侠心に打たれて孫堅の遺体を桓階に預けた。
その後桓階は荊州に留まり反劉表・親曹操の立場で行動をしています。 - 『魏書 諸葛誕伝』
呉の住民が長沙王・呉芮(前漢の功臣)の墓の後に孫堅の廟を立てようとします(・_・)ヾ(^^; オイオイ。呉芮の遺体を見たものが(ミイラ化して顔形がはっきりわかったようです)知り合いに姿が良く似ているものがいたので,調べて見たらなんと呉芮の16代目の子孫だったことが判明したことが書かれています。 - 『蜀書 劉巴伝』
劉巴の父,江夏太守の劉祥(りゅうしょう)は孫堅の南陽太守張咨殺害の時,孫堅側に組みしたことが書かれています。劉祥はそれにより南陽の民に憎まれ,住民の反乱により死去。劉巴も劉表の策謀により危険な目にあったようです。 ▲ -孫堅伝 了-