【 政変 】
- 189年,実質的な漢王朝最後の皇帝である霊帝が死去する。それと同時に後継者争いが勃発する。中国の歴史には付き物の外戚と宦官による勢力争いである。この場合、外戚派が少帝を擁する何進であり宦官派が張譲らである。この争いは何進が宦官を皆殺しにするか、宦官らが何進を葬り去るかのどちらかにまで激化する。結局、策謀に優れた宦官が何進暗殺に成功するが、その前に何進は西方の大軍閥董卓を都に呼び寄せていたのである。結局董卓が到着する前に何進は暗殺されるのだがこれは董卓にとってまさに渡りに船だっただろう。都に入れば宦官勢力を葬り去る大義名分がある上に自分を呼び寄せた何進はすでにこの世にいない。董卓が権力を握るに最大のチャンスがやってきたのである。このあたり董卓はただ運が良いとは言えないくらいの不気味さがある。これらの事態すら計算の内だったのかもしれない。
- 董卓という人物については蒼天航路で再評価が行われているが、私も董卓はただの無法者とは呼べないと感じる。宿敵董卓の項目でも触れたが董卓は後に孫堅の能力を見抜いて自軍に引き入れようとする。しかも曹操に対しても自分の懐刀として旗下に加えようとするのである。このあたり確実な人物の能力を見抜く目を持っていると言えるのである。
- 少帝の廃位にしても、少帝には何進の妹である皇太后がバックにいるのだから董卓にとって少帝を擁するのは今後に憂いを残す。宦官らを一掃した今,後ろ盾のない献帝を擁するのが董卓政権にとって一番の近道なのである。もちろん皇帝の廃位などをすれば混乱は当たり前なのではあるが、董卓は混乱すればするほど力を発揮できるタイプと言ってよい。董卓とすれば『おそらく皇帝の廃位で自分に対する反対勢力がはっきりするはすだ。それらは最終的には袁紹を中心にまとまるだろうから袁紹らを倒せばオシマイだ。奴らは自分の軍を持っていないのだから俺の敵ではない。後は一戦してやつらを一網打尽にするまでよ。』このあたりまでは確実に計算しての行動だったろうと思われる。もし董卓が失敗した原因があるとすれば、自分の力を過信しすぎたことと、曹操や孫堅という新しい英雄と呼ぶべき人物たちの野心まで見抜けなかったということではないだろうか?
- 結局曹操を引き入れることには失敗。曹操は都を離れ反董卓連合を画策する。そして190年,後将軍 袁術・冀州牧 韓馥・豫州牧 孔伷・兗州刺史 劉岱・河内太守 王匡・渤海太守 袁紹・陳留太守 張邈・東郡太守 喬瑁・山陽太守 袁遺・済北の相 鮑信らが袁紹を盟主に一斉に挙兵する。
- 孫堅はこの中には入っていない。反董卓連合の発足に当たっては孫堅は計画の中に入っていないのである。実はこれは当然と言えば当然。これらの人物は漢の中央政界でも名の知れた人物たちがほとんどであり孫堅は辺境の太守である。曹操が連絡を取れる範疇にいなかったのである。
- しかし孫堅がこの政変を黙って見過ごすはずがない。孫堅は荊州刺史の殺害というクーデターに打って出たのである。 ▲▼