【 黄巾の乱 】
- やがて下邳県の次官をやっていた孫堅に大きな転機が訪れる。黄巾の乱である。漢王朝は黄巾の乱の討伐に二人の将軍を派遣することになる。車騎将軍の皇甫嵩と中郎将の朱儁である。朱儁が黄巾討伐の将軍であったことは孫堅には幸運だったと言えるだろう。朱儁は会稽郡の出身。許昌の乱が起きた場所である。おそらく朱儁は許昌の乱の頃から孫堅に目をつけており、黄巾討伐に当たって孫堅を佐軍司馬(部将)として起用したいと願い出たのである。つまり孫堅は義勇軍などではなく正式な官軍として黄巾の乱の討伐に参加できたのである。
- これはでかい。義勇軍としての参加と正式な官軍としての参加では功績に対する褒賞が歴然とした差になるからである。孫堅は黄巾討伐の結果、長沙の太守に任じられる事になるが、孫堅の家柄が決して良い家柄ではないことを考えると正当な報酬を得たと言っていいだろう。
- また朱儁は配下の武将の功績をきちんと評価してくれる上官だったようである。朱儁は孫堅が宛城で真っ先に城内に突入して賊を大敗させたことを詳しく上奏して孫堅を別部司馬(別働隊を率いる武将)に任じているのである。(黄巾の乱の詳細については「三国雑談 実録・黄巾の乱」参照。)
- 黄巾の乱討伐で孫堅は連戦連勝し、汝南から頴川にかけての黄巾賊は朱儁と孫堅によってほぼ掃討されたらしい。しかし裴松之の注の中に孫堅の悪い癖が書かれている。単独行動と追いこみすぎによる危険である。西華で孫堅は勝ちに乗じて深追いして単騎で苦戦に陥ったらしい。その時は孫堅は負傷して馬から落ち草むらの中で倒れていた。孫堅の乗っていた馬が軍営から孫堅の場所まで戻ってきたから孫堅は助かったがもし馬が優秀でなかったらどうなったことか。英雄孫堅世に出る前に草むらで寂しく死去なんてことになっていたかもしれない。またそれほどの深手を負いながらも十日ほどでまた戦線に復帰したとあるから困ったものである。もう少し慎重に行動してください孫堅様^^;。 ▲▼