【 長沙太守 孫堅 】
  • 韓遂討伐の後,孫堅は荊州・長沙の太守に任じられる。これは孫堅の軍事能力を期待しての任命であった。その当時長沙では区星(おうせい)が将軍を名乗り反乱を起こしていたのである。区星についてはここでしか記述がないため想像の域を出ないが,土地柄を考えると山越のような異民族の類なのかもしれない。
  • 裴松之の注の中に長沙での孫堅の政治手腕の様子が書かれている。
    • 孫堅が長沙に到着すると有能な役人達を任用して『良民たちを手厚く保護するように。公文書の処理は正しい手続きを通して行なうこと。捕らえた賊はその場で処罰せずに太守(自分)の所に送ること』と命令を下した。そのため郡内は皆畏怖して服従した。
  • 孫堅の言っている内容は郡の太守として当然の内容ではあるが,逆に言うとその頃略奪や不正が行われ,捕らえてもいない賊を捕らえて殺したといった類の報告などが行われていたことを暗示している。それらの問題点を看破し,すぐさま人材を一新して行動に移したのである。孫堅の行動はいつも即断即決で簡潔明瞭だ。別段新しい政治的試みとかを行ったわけではないので優れた政治家とは言えないかもしれないが武人らしい不正を許さないすっきりとした政治が期待できる記述である。
  • 孫堅は着任して1ヶ月足らずで自ら軍を率いて(孫堅が自分で軍を率いないわけがないですね^^;他の人に任せるような性格ではありません^^;)様々な計略を用いて区星の乱を鎮圧してしまった。
  • さらに孫堅は区星の乱に呼応して隣の零陵郡・桂陽郡で反乱を起こしていた周朝・郭石らの鎮圧に乗り出したのである。これは孫堅が漢王朝の役人としての職務を遂行するだけのつもりではなかったらしいことが分かる部分である。はっきり言うとこれは越権行為。さらに裴松之の注の中に孫堅が廬江太守の陸康の甥(孫策伝の中に陸康は孫一族と交友関係にあったらしいことが記されている)が長をしていた宜春県が賊の襲撃を受けた時に救援に行っている。それに対して配下の役人が越権行為だからやめるようにと進言したのに対して『私には何の文徳(政治的功績のことか?)もなくただ軍功によってこの地位を得た。境界を越えてよその土地の危機を救うために越権行為の罪を被ってもなんら恥じることではない』と答えている。軍事的功績のためなら越権行為も辞さずというわけだ。また漢王朝も孫堅のこういった行動を特に咎めた様子はない。荊州南部の情勢が安定するなら越権行為程度は見逃したほうがいいと判断したのだろうか?しかしこうした行動は軍閥化の第一歩のはずである。
  • いずれにしても孫堅が零陵・桂陽の反乱の鎮圧にまで乗り出したために荊州南部の反乱は完全に鎮圧された。またこの時期に黄蓋・朱治といった新しい部下が孫堅旗下に参じたと思われる。孫堅軍閥の陣容が次第に固められていった時期と言えるだろう。孫堅は私兵を養い荊州南部での軍閥化を行っていったのではないだろうか?そう考えなくてはこの後の対董卓戦で諸侯が二の足を踏む中,孫堅軍のみが董卓に肉薄して洛陽から董卓を追いやった強さが立証できないのである。またそのために行った荊州でのクーデターと呼べる行動が可能であった背景も考えると可能性は高いように思う。あくまで推論なのであるが。またこの時期,漢王朝は孫堅の功績に対して鳥程侯の爵位を与えている。
    • (注)・・・と言うより(汗)、荊州南部の長沙に反乱鎮圧を目的として太守に赴任した以上、軍閥化?するのは当然であった・・と解釈した方が良い。軍閥と言った場合、私的軍事力をもって地方に割拠した勢力を指すが、当然そこには中央の制御が利かないという点が含まれる。この時代では董卓・公孫度などはまさにソレであるが、孫堅の場合は軍閥化という所までは至らない。そもそも、荊州南部自体、孫堅赴任前から中央の制御が利かない状態なのである。つまり、制御が利かず反乱に一々中央から伝令を発していたのでは対応が遅々となるため、孫堅にある程度の軍事行動権を与えた状態で太守に赴任させた。よって、孫堅が長沙で独自の判断で軍を動かすのは当然であり、そもそもがそういう地域であるために、他郡に侵攻しても、それが反乱鎮圧である限り自由行動が容認される。この辺の事情は異民族対策で幽州に置かれた公孫瓉とよく似ている。孫堅の軍は反乱鎮圧をしょっちゅうやっていたのだから、実戦経験も豊富。つまり、反董卓連合軍の実戦経験のない他部隊よりアドバンテージは確かにあった。