【 荊州に散る 】
- 孫堅の荊州討伐は順調であった。まず緒戦で劉表から送られて来た黄祖を打ち破り,そのまま追撃する。漢水を渡り破竹の勢いで襄陽を包囲した。やはり戦場で孫堅に勝てるものなど数えるほどしかいないのである。黄祖ごときでは孫堅を抑えることはできなかった。
- しかし突然,呉書孫堅伝の記述は終わりを告げる。孫堅は襄陽城外を単騎通行中に黄祖軍の兵卒の放った矢に当たって死んだのである。
- 陳寿の本文はこれだけなのだが,裴松之がいくつかの注をつけている。
- 『典略』曰く,孫堅は全ての兵力を襄陽攻撃に注ぎ込んでいた。兵が足りなくなった劉表は夜陰にまぎれ黄祖に兵の調達をさせた。黄祖は手に入れた兵を率いて城に戻ろうとしたがそこを孫堅に待ち伏せされ敗走,それを孫堅は追撃したが黄祖の部下がしげみの間から矢を放ち,孫堅を射殺した。
- 『呉録』曰く,孫堅はこの時,37歳であった。
- 『英雄記』曰く,劉表の武将の呂公が山影から孫堅に近づいた。孫堅は武装も固めず,騎馬で呂公を探索していた。呂公の兵士が石を落とし,孫堅の頭に当たって即死した。
- 劉表伝にも孫堅は流れ矢に当たって死亡した。とある。考えて見れば孫堅はいつ死んでもおかしくなかったとも言える。黄巾討伐の時は単騎で苦戦に陥って馬に助けられたし,対董卓戦では祖茂が目を逸らせなかったら死んでいたかもしれない。単独行動好きで,勝ってから追撃をかける時に追いこみすぎる孫堅は確かにこういう死に方をしてもおかしくはなかった。
- しかしいまいち納得できない気もする。あの策謀家の劉表がなんの策も講じずに,ただ孫堅と対峙したのだろうか?しかしそれを裏付ける記述はどこにもないし想像の域を出ない。
- 孫堅軍団は突然の当主の死去によって解体を余儀なくされた。37歳で死んだのだからその後を継ぐべき孫策はこの時20歳にまだまだ満たない子供であり,軍団を引き継ぐことなどできなかった。孫堅の兄の子である孫賁(そんふん)が軍団を引き継いだが孫賁は孫堅のような天下を狙う気概のある人物ではなく,袁術に身を寄せてそのまま豫州刺史に任じられる。孫軍団は袁術の政略の一端に組み込まれるのである。
- 孫家の命運は尽きたかに見える。しかし江東の虎が死んでも孫家の命運は尽きたわけではなかった。孫策が立派な若者になったとき,再び孫家は躍動を始めるのである。 ▲▼