【 孫堅、世に出る 】
  • 孫堅のエピソードとして最初のものが17歳の時の海賊退治の逸話です。この海賊退治の逸話はかなり詳しく書かれていて孫堅の戦略眼の良さ,勇猛さがよく表されています。
  • 父といっしょに銭唐に行った時、孫堅はたまたま胡玉という海賊が略奪をしている場面に出くわす。旅行者は触らぬ神に祟りなしで知らんぷり。ところが孫堅は単独で海賊退治を思いつく。見えやすい位置に上がって手を振ってあたかも軍を指図して海賊たちの退路を絶ち一網打尽にしようとしているかのごとく振舞う。それを遠目に見た海賊たちは官軍がやってきたと思い一目散に逃げ出してしまった。孫堅はそれを追撃(一人で・・・無茶しよるわい^^;)海賊の首を引っさげてくる。
  • おおよそ17歳の小僧の考えつくことではない。詳しく考えるとまずは孫堅は遠目に見ても目立つような偉大夫だったのではないかということ。軍を指揮するものにこれは大事な点ですね。息子の孫策は誰が見てもホレボレするいい男ですし孫権も紫のひげに角張った顎で威厳があったことを考えると孫堅もガタイの良い偉大夫だったと考えるのが妥当と思います。それに海賊からは遠目だったということは近くでやると17歳の若造だとばれてしまうことも考慮に入れて行動している。行き当たりばったりの匹夫の勇ではないですね。戦略が練られています。それを海賊を見た瞬時に判断して行動に移す・・・・この辺は孫堅・孫策に共通の戦略眼の良さと勇敢さです。また海賊が逃げ出した時点で大成功なのにさらにそれを追撃する(だって良く考えたら近くに行ったら17歳とばれるでしょう。しかも一人で・・・・)。この辺の単独行動好きでよせばいいのに無茶をするあたりも孫堅・孫策共通です。まあ後にこの性格が災いして孫堅も孫策も不慮の死を賜る訳ですが・・・・
  • いずれにしてもこのような海賊が横行する地域で孫堅のような人材がいたということはかなりの風聞を呼んだことは想像に難くありません。この一件で孫堅は仮の尉(警察の長官のようなものですか?)になります。17歳と言う年齢を考えれば仮であるのは仕方ないところでしょう。その後孫堅は郡の司馬(軍をつかさどる役目)となります。
  • その司馬だった時期に恐らく孫堅の初めての本格的な軍事的功績となる許昌の乱の鎮圧をやります。許昌は妖賊と記述があります。つまり宗教的な反乱者です。許昌は会稽郡の句章という所で反乱を起こします。どうも孫堅・孫策の時期には呉周辺ではカルト宗教が乱立して,それらが力を持ち反乱を起こしていたことが分かりますね。黄巾の乱も宗教的反乱ですし。儒教という大きな精神的支柱が揺らぐこの時代に宗教的な混乱があるのは当然なのかもしれません。(現在の日本もそうなのかな?父権が揺らいでいて精神的支柱がない。)
    • (注)孫堅がいくら武勇に優れているとしても、この時点で孫堅はただの司馬(部隊長)であり、許昌の乱の鎮圧の総司令であったとは考えられない。許昌の乱は172年のことと書かれており、筑摩の巻末の年表によると、反乱の主は許生。おそらくは許昌の事だろう。同じ事件が後漢書・朱儁伝では許昭の乱となっている。(許昭の許昌の息子。この辺、反乱の首謀者の名に混乱が見られ、いかに当時の呉・会稽部が混乱していたかが分かる。)反乱鎮圧の主力となったのは臧旻・陳寅らであり、さらには後に孫堅の出世に大きく関わる朱儁も、この事件への関与が後漢書に見られる。つまり、許昌の乱鎮圧の総司令はまず臧旻であり、孫堅はおそらく反乱鎮圧に部隊長として功績が多大であったのではないか?と思われる。また、この事件で朱儁は孫堅の軍事才能を見抜き、後に黄巾討伐に孫堅を推挙した可能性が高い。
  • 許昌の乱は何万という数の反乱になったとありますがこの時代の軍勢の数はかなりいい加減ですのであまりアテには出来ません。いても宗教団体の参加者が数万だったということでしょう。孫堅は州や郡の官兵と協力してわずか千人強の軍勢で許昌の乱の鎮圧に成功します。この鎮圧の功績が認められ孫堅は地方の軍令から県の丞(県令の補佐役)になります。郡の役人から県の中心的役目へとステップアップしたわけです。しかしこの時点ではまだまだ孫堅は中央からは無名の存在であり孫堅が実質的に広く知られるようになるのは黄巾の乱鎮圧への参加以降になるわけです。