【 宿敵 董卓 】
  • 黄巾の乱の勃発の2年後の186年。涼州で辺章と韓遂が反乱を起こした。それに対して中郎将の董卓が鎮圧に当たったが何の成果も上がらなかったので司空(最高位である三公の一つ)である張温が鎮圧に任じられた。と言っても董卓は成果を上げられなかったのではなくわざと何もしなかったというのが正解のようである。西方の大軍閥である董卓には董卓なりの計算があったと考えてよい。
  • この司空の張温が韓遂討伐に当たって孫堅を参謀として起用したのである。この張温という人物については魏書の方が詳しい。曹操の祖父である曹騰に推挙された南陽の人物で金で三公の位を買い取ったらしい。韓遂討伐に当たってなぜ孫堅を起用したのか?土地柄も孫堅とは無縁であるがこの時張温は後の徐州刺史(州の知事のようなもの)である陶謙も参謀として起用しているのである。つまりこの時期功績を上げていた有望株を参謀として自軍に加えたのだろう。前の上官だった朱儁に比べこの張温の評価はかなり低い。陶謙伝でも陶謙は張温の指揮を愚劣だと腹を立てている。孫堅も陶謙と同じく意見を却下された逸話が書かれている。
    • (注)参謀・・と筑摩の訳はなっているが、原文は【参軍事】つまり参軍。和訳すれは参謀だが、どちらかというと、行軍に参加させた・・という感が強い。
  • 張温は韓遂討伐のために長安まで軍を進めそこで駐屯した。その時に董卓を勅書で呼び寄せたが董卓は遅れて来た上に不遜な態度を取った。それに対して孫堅は『董卓は何もしなかったのに偉そうにしている。軍規を乱すから遅参したことを軍法にかけて処罰すべきだ』と進言している。しかし張温は董卓を処罰すると西に軍を進める拠り所を失うと言って躊躇してしまう。それに対して孫堅は明確に理由を列挙して董卓処罰すべしと言っている。
    • 貴方は天子の勅書を受けて軍を起こしているのだから董卓を頼る必要はない。無礼な振舞いをしたのだから処罰すべき。
    • 辺章と韓遂が勝手な振舞いをしているのはずっと前からであり,それを放置したのは董卓である。本来ならすぐさま董卓が鎮圧すべきであった。
    • 董卓は勅書で韓遂討伐の指令を受けた後もなんやかやと言って討伐しなかった。罪あるものを処罰しないと軍規の威厳は失われる。
  • 孫堅の進言を聞いているとその頃の涼州の情勢がおぼろげに見えてくる。その頃董卓は異民族の羌と通じていてその羌の反乱に乗じた韓遂らを真剣に討伐する気はなかった。むしろ涼州が無法地帯と化した方が董卓にとって都合が良かったのかもしれない。それに対して官軍であるはずの張温は董卓を恐れて董卓の専横を許す格好となっていた。それに対して孫堅は諫言をしているのである。
  • 裴松之の注の中に後に董卓が配下に対してその頃の様子を話した内容が書かれている。大変面白いので詳しく載せることにしたい。
  • 「俺が張温と共に辺章と韓遂を討伐したとき,周慎が金城に韓遂らを包囲した。俺は軍を回して援護するべきだと進言したが張温は聞き入れなかった。俺がそう進言したのは周慎では韓遂らを打ち破ることはできないと知っていたからだ。さらに張温は反乱を起こした羌の討伐を俺に命じた。張温は西方はまもなく平定できると思っていたのだ。しかし俺はそうはいかないことは分かっていたが出発しないわけにも行かなかった。その時に孫堅は周慎に向かってこう進言した。
    『自分は一万の軍勢を率いて金城に行くので周慎殿は二万の兵を率いて後衛となってほしい。金城にはこれまで食料の蓄えがなかったのだから韓遂らは外部から食料を運び込んでいるに違いない。また周慎殿の大軍を見れば軽々しくは交戦してこないはずである。そこで自分が韓遂らの補給線を遮断すれば勝てるはずだ』
    もし周慎が孫堅の意見を用いていれば涼州も安定しただろう。しかし周慎は孫堅の意見に従わず自分で金城を攻撃した。外側の城壁を壊した時点で賊どもが退路を遮断してしまったために周慎は逃げた。俺の計算通りだったというわけだ。」
  • 董卓はただの無法者ではなく優秀な武将だったことが良くわかる記述である。また董卓は自分を処罰するべきだと進言したはずの孫堅を高く評価していたこともわかる。後に反董卓連合との戦いの中で董卓は孫堅を懐柔しようと試みるがそれは戦略的な問題だけでなく,董卓自身が孫堅の能力を評価していたからだということがわかるのである。
  • しかし孫堅の側からすると董卓は危険人物と映っていたに違いなさそうである。董卓とはこの時が初対面のはずだがいきなり処罰すべきと進言するには『こいつはやばい。今のうちに処罰しないと何するかわからん。』という考えが多分にあったのではないだろうか。その後孫堅は董卓との戦いに邁進していくことになる。