【 クーデター2 】
  • 孫堅は王叡殺害のクーデターの後,反董卓連合への参加のために南陽まで北上した。孫堅は反董卓連合の諸侯の誰かに従う必要があった。反董卓連合に名を連られないと孫堅の行動はただの反逆行為だからである。では反董卓連合の諸侯のうち,一体誰が孫堅を一番必要としていたのか?それは後将軍 袁術である。
  • なぜ袁術が良かったのか?反董卓連合に参加した諸侯の肩書きを見ればみな州の刺史だったり郡の太守であったりする。つまり自ら軍を持つことのできる諸侯たちなのである。曹操はこの時,刺史でも太守でもなかったのでわずかな私兵を養うために家財を売り払って兵を集めている。土地を持たざるものにとって兵を得ることは重要な問題だったのだ。さて袁術であるが彼の肩書きは後将軍である。つまり土地を持っていない。兄の袁紹に出遅れるわけには行かないものの,拠点のない袁術は兵集めの段階で一歩出遅れてしまっていたと思えるのである。袁術にとって孫堅が旗下に参じるのは好都合であったし,孫堅にとっても比較的近い位置にいる袁術に従うのが一番良かったのだろう。また本拠である長沙を遠く離れて戦うことになる孫堅にとって,物資の調達をしてくれるブレーンは絶対に必要だった。
  • さて南陽まで北上した孫堅であるがここで南陽太守の張咨の殺害を行っている。この頃の孫堅は触れれば斬れる刀のごとく,ジャマするものは斬る!!といった感じである。張咨殺害の経緯に関しては陳寿と裴松之の注で二通りの説が書かれている。陳寿の本文では孫堅は張咨との会談中に一気に殺害したとある。注の方には張咨は孫堅の食料調達の願いを無視しただけでなく,孫堅と会おうともしなかったので,孫堅は急病になったふりをして張咨に『病がひどくすでに兵を率いることができない。張咨殿に軍を預けたいと思うが,私の後を引き継いでもらえないだろうか?』と持ちかけ,のこのことやってきた張咨を切り殺したとある。孫堅も理由もなく殺したりはしないだろうから張咨がなんらかの妨害をしたと考えるのが妥当かもしれない。
  • さて張咨殺害後,孫堅は魯陽で袁術と会見をし,孫堅は破虜将軍の位と豫州刺史の位をもらっている。いずれにしても孫堅は正式に反董卓連合に加わった。(注)南陽太守・張咨の殺害については、おそらく孫堅の独断ではなく、袁術の差し金である。前述したように袁術は土地を持っていなかった。よって長期的に軍を動かすには拠点を必要とし、その拠点の候補が南陽だったのである。となると・・・である。そもそもの荊州刺史殺害・そして南陽太守殺害は、利害の一致した袁術・孫堅による共謀ではないか?という推測が成り立つ。袁術には土地、そして軍事経験の豊富な武将が必要であった。孫堅には反董卓連合加入の口実が必要であった。また当時の中央政府には、その強行姿勢を批判しうる体制はなく、反董卓連合の盟主は袁術の兄、袁紹。うやむやにしてしまうのには、実に都合の良い体制ができていたのである。 
    • (注)南陽太守・張咨の殺害については、おそらく孫堅の独断ではなく、袁術の差し金である。前述したように袁術は土地を持っていなかった。よって長期的に軍を動かすには拠点を必要とし、その拠点の候補が南陽だったのである。となると・・・である。そもそもの荊州刺史殺害・そして南陽太守殺害は、利害の一致した袁術・孫堅による共謀ではないか?という推測が成り立つ。袁術には土地、そして軍事経験の豊富な武将が必要であった。孫堅には反董卓連合加入の口実が必要であった。また当時の中央政府には、その強行姿勢を批判しうる体制はなく、反董卓連合の盟主は袁術の兄、袁紹。うやむやにしてしまうのには、実に都合の良い体制ができていたのである。