【 董卓との激戦 】
  • 反董卓連合に袁術旗下で参加した孫堅は董卓との激戦に突入する。しかし反董卓連合は実際には十分に機能していなかった。所詮は寄せ集め軍であるし,それぞれの諸侯には今後を見据えた思惑が存在していたのである。盟主の袁紹はこの当時渤海の太守であったが,どこか一つの州を手に入れ,しっかりとした本拠を作ろうとする意図があったし(袁紹はその後韓馥と公孫瓉の仲たがいを利用して冀州を手に入れる)その他の諸侯についても強力な董卓軍とまともにぶつかって自軍に損害を出すことは賢い選択ではなかったのである。
  • だからこの当時本気で董卓を叩こうとしていたのは曹操・孫堅らこれから名を売っていく必要があった者たちだけであった。曹操は動こうとしない諸侯にしびれを切らしてわずかな手勢で徐栄軍と激突。自らは流れ矢に当たって負傷,曹洪の献身的な援護のおかげでなんとか生きて帰れるほどの大損害を被った。(ただしこれは負けたにしろ曹操にとって良い結果を産む。徐栄は曹操軍の苛烈さを見てまだまだ攻めきれまいと判断して帰還しているし,この戦いが曹操軍苛烈なりという風聞を産んだはずである)
  • 孫堅にしても董卓軍との戦いは勝ったり負けたりであり,決して連戦連勝ではなかったのである。しかし曹操軍が瓦解した後,まともに董卓軍と張り合えたのは孫堅軍だけであった。これは孫堅の軍事能力もさる事ながら,長沙という漢王朝の権威が十分に届かない辺境で私兵を養い十分に準備をしてあったからだと考えている。準備をしてあったからこそ情勢に乗り遅れまいと荊州でのクーデターという強行策に打って出たし,董卓軍ともまともに張り合えたと考えられるのである。
  • 董卓軍との初対決は董卓の先手で始まっている。孫堅は董卓討伐の前に,長沙に部下の公仇称(こう・きゅうしょう)を戻して軍糧の増援をさせようとしていた。その送別会の最中に董卓軍の先鋒が乗りこんできた。(孫堅は送別のためにこの時,城の外にいた)孫堅は慌てないで軍を整えるように指示した後,整然と城に帰還した。もし慌てて逃げたら兵士が浮き足立ち緒戦で士気は大きく下がっただろう。しかし孫堅は整然と城に帰還したため城に混乱はなく,董卓軍は攻め入ることができずに帰還した。送別中という隙をねらう董卓軍も大したものだが,それを受けて整然と帰還する孫堅の胆力も大したものだ。
  • その後,孫堅は梁に軍営を置き,陽人城を攻めようとしたがその時にも董卓軍の急襲を食らっている。この時は大敗だったようで,部下の祖茂が孫堅のかぶっていた赤い頭巾をかぶり董卓軍の目をそらしてなんとか逃げ延びているのである。祖茂についてはこの後記述がない。やはりこの時,死んでいるのだろうか?
  • しかしこの後,孫堅は軍を再編成して再び陽人に攻め入り,董卓軍を打ち破ったのである。