【 魯粛離反? 】
- 魯粛は周瑜と共に、江東に脱出する。魯粛は家族の者を曲阿に住まわせたとあり、魯粛が孫策麾下として活躍するのは間近であるはずだった。所が、問題が発生する。【丁度その頃】、魯粛の祖母が死去したのである。漢王朝やら礼儀作法やらには、まるで無頓着な魯粛も、おばあちゃんっ子で、実質的な育ての親である祖母の死はこたえた。当時の風習で、遺体は故郷に葬り、三年喪に服するというのが規定であったから、魯粛はそれはその通りにした。江東に脱出し、孫策の元で立身出世の野望を叶えるはずだった魯粛は、ここで一端、歴史上から退場する。おそらく、198年初頭の事・・・だろう。実を言うと、魯粛は喪に服していた説?を採用するのには理由がある。この記述の後にある、劉曄が魯粛を勧誘する件が決定的におかしいのだ。
- 今から書くのは両方とも、陳寿の本文。
- 魯粛伝本文。劉曄は魯粛と親しかったので、魯粛に手紙を書いてこう言った。「貴方の才はこうした乱世にこそ必要である。東城で無為に過ごさず、急ぎ戻って母上を迎えられますように。近くでは鄭宝が巣湖に一万の衆を擁し、廬江近辺の者は彼に身を寄せている。我々もそれに従うのが良いでしょう。時を失う訳には行きません。貴方も急ぎなさい。」そこで魯粛は劉曄に賛同して、祖母の葬儀が終わると曲阿を出て、北に行こうとした。【丁度その時】、周瑜が魯粛の母を呉に連れてきた。【この当時】、すでに孫策は亡く・・・
- 劉曄伝本文。揚州には軽はずみな男やずる賢い荒くれ者が多く、鄭宝・張多・許乾と言った連中が、幅をきかせていた。特に鄭宝はその中で最も有力であり、人民を追い立てて、長江南岸に降るつもりだった。鄭宝は、劉曄が名士である事から、この計画の首謀者とするつもりだった。だが、劉曄は酒宴の席で自ら鄭宝を斬って捨て、「曹操殿の命令である。反抗すれば鄭宝と同罪である。」と言い放ち、鄭宝の手勢を手に入れた。劉曄は、その手勢を劉勳に委任した。
- まず、時系列を整理する。魯粛の祖母が死んだ可能性があるのが、198年から200年の間である。時期は特定できない。と、いうのも正史の「丁度その頃・・・」は、結構、時間的な幅をもっている事が多いからだ。酷い場合には、ン10年の較差がある事もあり、もしかしたら、ただ筑摩の訳し方が悪いのかしら?と思うときもある。陳登が匡琦城で孫呉軍を二度撃退としたという逸話など、その最たる物で、孫策の時の呂範の行軍と、赤壁の時の張昭の行軍が同時に書かれているのである。
- もし、【丁度その頃(時)・・】を鵜呑みにして考えると、孫策が死んだのが200年であるから、劉曄が手紙を書いたのも200年、祖母が死んだのも200年となる。だが、そうすると、【東城で無為に過ごさず、急ぎ戻って母上を迎えられますように】の意味が通じなくなる。すでに魯粛は江東に脱出しており、東城で過ごしていたのではない。もし葬儀のために東城を訪れた時の事であるなら、母を迎えに来い・・という言い方もおかしい。
- 次に、人物の出現時間が合わない。鄭宝が廬江近辺で勢力を持ったのは、袁術没前後の袁家の支配力が弱まった時期の事であると思われる。それ以外で廬江付近でこうした豪族が勢力を張れる時間帯はない。少なくとも、劉勳が皖城にいた頃の事だ。で、鄭宝は劉曄を旗頭にしようとしたが、逆に斬り殺され、その兵力は劉勳に委任された。で、その劉勳は孫策に敗れ、曹操に身を寄せている。つまり時間軸で言うと、鄭宝死亡(198年前後)→劉勳敗北(199年)→孫策死去(200年)となる。でもって、劉曄の手紙が送られてきたのが、鄭宝死去前であるとしたら、当時の当主は孫策である。大体、劉曄は鄭宝の江東割拠計画を苛烈な方法で阻止したのであって、その彼が友人の魯粛に【共に鄭宝の所に行こう】と誘うのは妙な話である。
- この矛盾にある程度の結論を出すためには、以上の点から、魯粛伝にある劉曄からの手紙の内容は、時期・人物の記述等に誤りがあると考えるしかない。劉曄伝の記述は、劉曄の行動パターンからも時系列からも信憑性が高いからだ。
- まず、この二つの記述の双方に誤りがないと考えるなら、【魯粛がこの手紙を貰ったのは孫策生前】であったが、【葬儀中(喪中)】であったので、【喪が明けてから(孫権就任後)北に帰ろうとした(曹操に仕えようとした。)】という事だ。魯粛は孫策期に江東に来ているにも関わらず、実際に動き始めるのは、孫権就任以降の事になる。その間ほぼ三年間の行動が不明であり、三年という期間と、祖母が死んだという記述を組み合わせると、どうも喪に服していたと考えるのが自然と感じる。この場合、葬儀には喪も含まれる事になる。原文には【葬】とあり、これが喪中も含むのかは私には分からない。
- 次に時期・人物に謝りがあるとすると、これはある程度簡単に結論が出る。孫策生前にこの手紙があったのであれば、周瑜が目通りさせるべき相手は孫策になる。つまり、魯粛が無為に過ごしていたのは曲阿(あるいは東城に戻ったのかもしれないが)であって、劉曄が手紙を書いたのは孫策死後の事とすると分かり易い。ただし、この場合、なぜ鄭宝に仕えよう・・と手紙にあるのかは不明。あるいは李術の間違えか?もしくは、この手紙が送られたのは、もっと以前の事で魯粛が江東に脱出する前であったか?だ。ここでは孫策死後と取る。孫策死後は曹操による孫呉人員の切り崩しが行われており、その一環として劉曄が魯粛を引き抜こうとしたと考えるのが自然のように感じるからだ。
- どちらの説を採っても、魯粛が北に帰ろうとしたのは孫権就任後の事である。つまり、魯粛は孫呉を見限ろうとしていた。無理もない話で、孫呉を支えたのは一重に孫策のカリスマ性と行動力であり、その孫策が死去した今、孫一族からも反逆者が出る有様だった。この状態では魯粛の考える覇業と言うのも実現不可能であり、それならばいっそ、北に帰るか?という事である。魯粛には、北に帰っても曹操に仕えて州刺史くらいにはなれる自信があったのだ。後の赤壁の時に同様の事を孫権に言い放っている。【私は、曹操に仕えても州刺史くらいには用いられますよ。】と。
- この男の価値観は、ほぼ生涯を通してこの通りである。魯粛にかかると、不義・不忠など現実論の前では、なんの意味も持たない。だがそれ故に、様々な思考的制約を一切排除していた魯粛の思想は、危険なまでに現実的であった。 ▲▼