【 脅迫 】
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- -開き直った人間には、怖い物はない。-
嘘八百並べて劉備との同盟を勝手に作り上げ、援軍にはほど遠い敗残兵を手みやげに柴桑に帰ってきた魯粛には、当然の事ながら発言権などなかった。そのまま牢獄に直行しなかっただけでも良しとしたいくらいである。というか、元々、魯粛は無官であり、この一件があってもなくても、大した発言権なんぞなかっただろう。当時の魯粛の立場を現すのに、良い言葉はないか?と探していたのだが、【政策秘書】という言葉が非常にしっくりくるので、それを使わせて貰うことにした。魯粛はあくまでも下っ端の政策秘書であり、君主には信頼はあるが、議会での発言権はほとんどないに等しいのである。それは諸葛亮も同様で、この時点では諸葛亮は無官。いわば政策秘書の魯粛が劉備側の政策秘書を連れて帰ってきたようなもんで、その事自体にそんなに大きな事件性はないのである。重要な懸案を添えて来訪したはずの諸葛亮が、柴桑会議には出席した様子が見られず、個別に孫権に会っているとしか解釈しようがない事も、それを考えれば理解しやすい。 - では柴桑会議はなぜ始まったか?と言うと、あくまで曹操が江夏に矛先を向けた事に端を発している。そもそも孫権が柴桑に拠点を置くようになったのは江夏制圧のためであり、その江夏に曹操が来るとなると、対応策を考えざるを得ない。では曹操がなぜ江東に矛先を向けたか?と言うと、劉備が江夏に移動したからであり、それを決定づけさせたのは魯粛であった(汗。なんの事はない、ほとんど戦犯に近い。
- (注)ただし、なんの成果もなかったように見える魯粛の荊州出向であるが、その実、一つだけ成果をもたらしている。劉備と同盟する事により、【江夏への通行権を手に入れた】という事だ。もし、曹操と対決する事になった際には、江夏を抵抗なく通してくれるというのはプラスになる。ただ、これは相対的に見れば・・という事であって、もし劉備がそのまま長江を南に降ったとしたら、江夏の劉琦も劉備に同行する可能性が高いし、曹操もまずは劉備を捕らえようと、長江を渡って追撃する可能性が高い。なら、その場合は江夏は比較的楽に手に入る。むしろ、曹操の目を江東に向けさせたのは、劉備が江夏に駐屯したからだ。結局、功罪プラスマイナスゼロと言った所か(汗)?
- この荊州騒乱の時、曹操・魯粛・諸葛亮、この三者の目が全て江陵に向いていた。江陵の重要性を理解するからこそ、曹操は劉備が江陵を押さえる前に叩きつぶしたのである。そして、江陵を押さえた事で、地勢的優位に立った曹操は、そのまま江夏へとその意識を向けた。だが、賈詡が言ったように、もし曹操が戦略的ミスを犯したとするとこの時だった。江陵を押さえた以上、孫権と劉備が組もうが、もう無理をする必要はなかったのだ。
- 一方、孫呉である。江陵が墜ちた以上、誰の目にも不利は明かだった。魯粛にしても、戦って勝てるという目算などなかった。魯粛はここに到るまで、ただの一兵卒だって指揮した事はない。門外漢なのである。だが、開き直った魯粛に怖い物はなかった。勝てる勝てないではない。戦うしかないのである。降伏論を唱える群臣たちの意見が続く中、じっと魯粛は孫権に直接話をねじ込むチャンスを伺う。会議では白眼視されて、一言もしゃべるチャンスはない。そのうち、孫権が「ちょっとトイレ」と言って会議を離れた一瞬を魯粛は利用する。
- 孫権は孫権で、魯粛の言葉を聞いておきたかった。いつだって、この男の脳みそは、孫権が思いもよらない事をしゃべった。「何が言いたいんだ?」と、孫権は魯粛に尋ねる。すると、この人間びっくり箱は、確かに孫権が思いもよらない事をしゃべり始めた。
- 「先ほどから人々の意見を聞いてましたが、貴方を間違った方向に導く物ばかりです。確かに、私などは(少しは名声もありますから)曹操に降っても官位を得られるでしょう。いずれは郡太守・州刺史になる事もできます。ですが、(家柄の悪い)孫権様はどうですか?どこに身を落ち着けると言うのです?絶対に降伏してはなりません。」
- 曹操に降って優遇されるのは、孫権を降伏に導いた群臣、つまり張昭たちである。反・曹操の立場で蠢動した魯粛は危険分子であって、通常、処罰対象である。確かに曹操なら才があれば、危険分子でも使うかもしれないが、確定できるような事ではない。しかも、魯家は豪族であっても名士ではなく、その点は孫権と同じである。家柄云々で孫権に脅迫をかける事ができる立場ではない。
- 次に、孫権が降伏した場合、身の落ち着け所がない。これも嘘である。現に降伏した劉琮は青州刺史となっている。いくら家柄が悪くても、孫権が降伏するという事は曹操の天下統一が成るという事であり、無碍に扱うはずがない。刺史くらいにはなれるのは孫権の方である。実権はないだろうが。
- つまる所、魯粛は万策尽きていたのである。だが、この段階に至って、魯粛に救世主が現れる。鄱陽にいた周瑜が柴桑に到着。切々と、純粋戦略上の曹操軍の不利を説いたのである。(周瑜伝【才能の種】参照。)この軍略家は、魯粛とはまた違った視点で曹操の荊州侵攻を眺めていた。軍事戦略という視点で。実質的に孫権に抗戦を決意させたのは、この周瑜の勝機ありという意見だった。
- (注)この時、魯粛が孫権に言った言葉として、「魏書」と「九州春秋」の異説が注釈として挿入されている。この二つの書によると、魯粛はわざと孫権に降伏を勧め、孫権を怒らせて抗戦に踏み切らせようとしている。だが、この逆説的に説いて孫権のプライドを揺さぶるというやり方は、諸葛亮の用いたやり方そのままであり、どちらかがどちらかの説話を元に作られた物ではないか?と思わせる。で、陳寿が諸葛亮の逸話を採用し、魯粛の逸話を採用しなかった事を考えれば、可能性としてはこの二つの書の記述の信憑性は低いと見て良いかもしれない。
- こうして柴桑会議は紆余曲折の末、徹底抗戦で結論が出る。周瑜は3万の兵で、柴桑から長江を昇っていく。赤壁の火蓋は切って落とされた。 ▲▼