【 危険なる狂児 】
- 魯粛、字は子敬。臨淮郡、東城の人である。
- この事は多くの三国志系サイトで紹介されているので、もう言うまでもないと思うが、正史の魯粛と演義の魯粛はまるで別人である。演義では、諸葛亮と周瑜の間で右往左往するお人好し。それ以上でもそれ以下でもないのだが、正史を普通に読んでいけば、長期的展望力を持つ優秀な政治戦略家である事は見て取れる。だが演義での魯粛が、呉と蜀の間で右往左往するお人好しになっていく原点も、正史に見つからない訳でもない。実はこの男、その行動の多くの場面で孤立無援なのだ。赤壁の場面でも降伏に傾く群臣の中で、一人抗戦を唱え、苦戦する様子が見て取れるし、赤壁後、劉備が京城に来た時も、周瑜までもが劉備軟禁を主張する中で、一人だけ劉備に荊州を貸し与えるべきだと唱えている。荊州争奪戦の時も、呉・蜀が対立する中で、魯粛一人だけが奔走して対立回避に動いているように見える。劉備・諸葛亮が主人公である演義の考え方から見れば、敵対する勢力の中で一人だけ蜀に味方するお人好し、それが魯粛であると捕らえられても仕方ないのではないか?と思えなくもない。だが、魯粛がそんなお人好しであろうはずがない。残念な事に、あの蒼天航路でも登場シーンこそ、そうしたお人好し魯粛ではない魯粛像を期待させたのだが、結局の所、諸葛亮の怪しさに翻弄される常識人・・・というレベルで治まってしまった。当サイトの魯粛伝で時代を切り開いた革命児としての魯粛像に迫ることができたなら幸いである。
- まず、生い立ちから追っていく。
魯粛が生まれたのは臨淮郡、東城。臨淮郡というのは、区分で言うと揚州ではなく徐州になるようだ。陳登伝にも陳登は東城太守になった・・・とある。だが、袁術が淮南に勢力を張っていた頃には、九江郡に属していたようでもあり、実際に揚州・徐州いずれに属するのかはよく分からない。いずれにしても臨淮郡、東城は、魯粛が成人した頃には、袁術の支配下にあった。 - さて、魯粛が豪族の子である事は間違えない。後に周瑜に多大な物資援助をしており、かなりの財力を誇っていた事は分かる。だが、魯粛の伝で特徴的な事が一つある。【父親の名前が分からない】のである。父親の名前が分からないというのは、どこかで見た(笑)。そう、孫堅伝である。この時代、ある程度の名士であるならば、先祖の記録は残されており、魯粛がそうした名士であるならば、当然魯粛伝にそれが記載される。だが、それがないという事は、魯粛は身分的に言えば下賤の者なのだ。だが、【魯粛は、田畑を売って困窮している人々を救い・・・】とあり、東城有数の経済力を持った地元有力者だったのは間違えない。家業としては水運か農業経営か?この財力を見ると水運の可能性を感じる。
- 豪族と一口に言っても、実は大まかに分けて二種類に分かれる。経済力を基盤として地元に根付いた豪族と、名声を有し政界に人脈を持つ豪族(むしろ名士と呼んだ方が良い。その中には経済的には貧しい者もいて、劉備などは人脈はあっても、家は貧乏で筵を売って暮らしていた。)がいる。魯粛は明らかに前者の方であり、淮水・泗水周辺で代々財を築いていたが名声は低く、祖先に官職を得た者はいなかった。地元の有力者ではあっても人脈がないので、このままなら政治の世界に名を連ねる家系ではなかったのである。 ▼