【 呉建国最大の功労者 】
  • 215年の荊州争奪戦の後、217年に魯粛は死去した。歳は46とあり、別に若くして死んだという訳ではない。孫権は魯粛のために哭礼を行い、葬儀にも参列した。諸葛亮も魯粛のために喪に服したと言う。確かに、この時期の諸葛亮の行動記録は資料が少ない。
  • 孫権は後に皇帝となった時、儀礼のための祭壇に登ると群臣を振り返り、
    「魯粛にはこうなる事が分かっていたのだ。」
    と言った。孫権の国家方針を定めさせたのは、間違えなく、この危険なる狂児だったのだ。
  • 以前、孫権伝を書いたとき、私は魯粛を蓋であると称した。呉・蜀同盟の細い小さな糸を必死でつなぎ止めた人物と見ていたのである。だが今回、魯粛伝を解析してその評価は180度変わった。彼の視線が北方制圧に向いた事は一度もない。彼の根本姿勢となる覇業論からして、【曹操は取り除くに難しい難敵】であり、その曹操に対抗するべく、【長江一帯を押さえる】事をその生涯の目的としている。その長江一帯に曹操が入り込んだのは赤壁のあった208年だけであり、それ以外では常に劉表・劉備が割拠していた。つまり、魯粛の目は208年の時を除いて、常に割拠する三つ目の鼎に向いていたのだ。
  • その意味で、孫権皇帝就任以前の三大国士と言うべき、周瑜・魯粛・呂蒙のうち、根本政策的に異なる人間は一人もいない。全てが【長江流域制圧】に向いているのである。違うのはその規模の大きさと方法論だけだ。孫呉の国家方針が二転三転したというのは、魯粛が呉・蜀同盟維持論者で蜀と同盟して北方を制圧する意図を持っていたという誤解から生じている。魯粛は徹底した現実主義者であり、揚州一つで北方を制圧できるなんて考えた事は一度もない。少なくとも、長江流域を制圧して初めて北方に対抗しうるのであり、それなくして国家も存在し得ないのである。217年の魯粛死去後、孫権は魏に臣従し本格的な荊州完全併呑を開始するが、これとて魯粛が健在だったとしても、何か変わる事があっただろうか?魯粛の生前の思考パターンから言って、形式的に魏に臣従する事など屁でもない。江陵を完全併呑する機会が訪れたと見れば、喜んで支援したはずである。
  • 魯粛という男を一言で言えば、あらゆる価値観的制約から解放された自由人であり、その自由な発想力を元とした大きな国家構想を持った人物である。一方で軍事戦略能力は?マークが付くし、短期的な展望力では、読み間違いや誤算も多くある人間である。だが、魯粛の国家構想無くして、孫呉は国家として存在し得なかった。周瑜も呂蒙も、魯粛の覇業論に沿った形で、戦略を立てたに過ぎない。その意味で、もし孫呉建国の最大の功労者を挙げろと言われれば(孫策・孫権を除外して)、私は一も二もなく魯粛を挙げる。確かに周瑜や呂蒙の軍事戦略能力は得難い物であるが、その根本方針を作り上げたのは魯粛であるからだ。
  • さて、うちの魯粛伝では、気違いだの、危険なる狂児だの、しゃべる起爆剤だの、人間びっくり箱だの酷い事を言われ続けた魯粛であるが(汗)、彼の名誉のために美談を一つ挙げて魯粛伝を締めたい。
  • 呉書の注に言う。魯粛の人となりは方正謹厳で、自らを飾り立てる事はなく、その生活も内外ともに質素であり、流行物には興味を示さなかった。資産家の息子にありがちな放蕩性は一切なかったのである。彼が金を惜しげもなく使うのは全て立身出世のためであった。
    また、軍の指揮に当たっては、きっちりと軍規を明確にし、魯粛の軍は禁令を犯す事がなかった。軍が好き勝手していては、民心も得られず、結果として土着有力者たちの反感を買う事を魯粛はよく理解していた。魯粛が元々土着有力者であったからこそ、である。
    さらに魯粛は行軍中でも、書物を手放す事がなく、談論に巧みで文がうまく、その思慮は遠くまで及んで人並み外れた洞察力を持っていたと言う。彼が先天的な能力にのみ頼る事なく、常に人脈を大切にし、資質の向上に努めた事がよく分かる。このような努力家であったからこそ、異端とさえ言える彼の思想があっても、常に孫権に信頼され大事を任されたのである。まさに呉を代表する英傑であり、三国志史上でも壱、弐を争う、特異な人材であった。  -魯粛伝 了-