【 第一次呉蜀荊州争奪戦 】
- 215年の第一次呉蜀荊州争奪戦は、かなり呉側の計画性を感じる所が多い。まずはタイムテーブルから。
- 215年三月、曹操が張魯討伐を開始。
- 215年七月、曹操、陽平関に到達。
- 215年八月、孫権が合肥を包囲。
- 215年十一月、張魯が曹操に降伏。
- 月まで分かっているのは、以上の四点。そこに時系列に沿って事件を挿入していく。
- 215年三月、曹操が張魯討伐を開始。
- 孫権、諸葛瑾を使者として、劉備に対し荊州返却を要求。
- 劉備、孫権の荊州返却要求に対し、「涼州を取ったら返却する。」と返答。
- 孫権、長沙・桂陽・零陵の三郡の長官を任命。これを関羽が追い払う。
- 孫権、呂蒙を派遣して長沙・桂陽・零陵を襲撃させる。魯粛は兵一万を巴丘に布陣し、関羽に対抗。孫権は陸口に布陣。呂蒙、兵二万でもって長沙・桂陽を降伏させる。零陵の郭普は降伏せず。
- 劉備、変事を聞きつけ、公安に布陣。関羽が兵三万を率いて益陽に布陣。孫権、呂蒙を益陽に呼び寄せる。 呂蒙、零陵の郭普を計略にかけ、零陵を制圧後、魯粛と兵を合わせ、益陽で関羽と対峙。甘寧、関羽の渡河を阻止。
- 安成・攸・永安・茶陵の長が孫呉に反旗を翻して、陰山に立て籠もる。呂岱がこれを殲滅。安成の呉碭・袁龍が関羽に通じて、醴陵で反乱を起こす。魯粛が呉碭、呂岱が袁龍を攻撃。呉碭は逃亡、袁龍は呂岱に捕らえられる。
- 215年七月、曹操、陽平関に到達。
- 曹操の漢中侵攻を受け、劉備が和平を提案。孫権、これを承諾。江夏・長沙・桂陽を呉、南郡・零陵・武陵を蜀が領有。
- 215年八月、孫権が合肥を包囲。
- 215年十一月、張魯が曹操に降伏。
- まず、どの時点で呉・蜀の和睦が行われたか?である。三月の張魯討伐開始の時点であるとすると、その後張魯が曹操に降伏するまでの期間が空きすぎるので、これはない。よって曹操が陽平関に侵入した時点、つまり七月に和睦が為されたと見るのが自然である。
- すると孫権は和睦成立後、すぐに軍を合肥に向けた事になり、呉書にあるように、第一次呉蜀荊州争奪戦では大規模な戦端は開かれなかったと見て良い。軍が無傷であったからこそ、曹操の不在を狙って孫権は合肥に兵を向けたのである。
- また、三月の時点で曹操は張魯討伐を開始していた訳であるから、孫権の荊州返却要請は、曹操の動向を考慮に入れての事だ。つまり、すでに張魯討伐が始まっているので、劉備側は二方面に視点を置く必要があり、戦略的に不利な状況で呉との荊州争奪戦を行わなくては成らない。関羽が強引な渡河をしなかったのもそのためだ。詰まる所、孫権の荊州侵攻は、こうした点から実際には戦端は開かれない可能性が高い事を考慮に入れている。つまり、計画的行動であり強行外交と言って良い。
- もう一度、最初から見ていく。まず、魯粛伝に
- (215年以前から)国境地帯で紛争が起こったが、魯粛は常に友好的な態度でこれに接した。
- 南郡貸与の意味をもう一度、考察してみる。
一つには南郡・江陵では孫呉が土地的基盤を築くのに失敗したという受動的理由が存在する。荊州の人材は劉備を選んだ。これは旧・劉表陣営がそのまま劉備に移行したという事であり、このまま江陵に執着すると孫呉は完全に荊州での権益を失う可能性があった。
もう一つの理由は、南郡貸与を外交カードとして使用するという能動的理由である。劉備に貸しを押しつける事でその後の外交を有利に運ぶ目的があった。孫権の荊州返却要請はその目的に沿った計画である。ただし、この時点で荊州を全て(南郡+南部四郡)返却せよと劉備に通達したのだとすれば、劉備からすれば到底受け入れられる物ではないし筋も通らない。そもそも呉が貸与したのは江陵・南郡だけである。
よって、南郡の返却を要求したのではないか?と私は考える。それを荊州返却要求であると一環して呉書は言っている。だが、確かに、南郡返却要求というのは荊州を返せという意味を持ってしまうのである。 - 劉備が南郡を返却するとどうなるか?地図を見れば一目瞭然であるが、益州と荊州南部四郡が分断されてしまうのである。分断統治など以ての外であり、これを劉備が受け入れるはずがない。よって、この返還要求は却下されるのが当たり前である。むしろ、「涼州を取ったら返す」という劉備の返答は、かなり譲歩した言い方ですらある。つまり、孫権の荊州返還要求は却下される可能性を初めから考慮に入れた要求だ。その事は、その後、孫権が
- 劉備、荊州返還要求拒否
- 孫権、長沙・桂陽・零陵の長官を任命。
- 関羽がそれを追い返す。
- 呂蒙に長沙・零陵・桂陽の攻略を命じる。
- 魯粛に誤算があったとすれば、漢中の動向が気になるはずの劉備がほぼ全軍を率いて公安に布陣したという点である。このため、巴丘に布陣した魯粛は純粋軍事的に不利となった。また、関羽が布陣した益陽は長沙・零陵・桂陽に睨みを効かせる要所であり、そこに魯粛の兵力を遥かに超える三万という軍勢を率いて関羽が布陣した。つまり魯粛の予想を越え、戦局は予断を許さない形となってしまった。孫権は呂蒙らを呼び寄せて魯粛の援軍とする。一方で魯粛はこの段階で益陽を奪われると、計画が頓挫する可能性すら生じてしまうので、必死になって衝突の回避に奔走する。それが魯粛と関羽の単刀会見である。215年以前の段階で、魯粛が友好的な態度を取ったのも、事を強行外交の範疇で処理するための布石であって、荊州の領有権を放棄したまま友好関係を維持するためではない。
- 魯粛は関羽に会見を申し込むと、それぞれに刀一つだけを携帯して会見に臨んだ。よってこの会見は単刀会見と呼ばれる。相手は豪傑・関羽である。魯粛の豪放さが形となって現れている。魯粛は関羽に対して
「孫権殿が荊州を貸与したのは、劉備殿が基盤を持たなかったからである。しかし益州を得たのに劉備殿は土地を返そうとしない。」
と言う。そしてその言葉が終わらない内に、ある者(関羽側)が
「土地は徳ある者に属するのであっていつまでも同じ人の物とは限らない。」
と叫ぶ。これを魯粛は大声で怒鳴りつけ、関羽は「事は国家の事であり、この者の関与する事ではない。」と言い、この者を下がらせた・・・とある。呉書の注では、もっと詳しい経過があるのだが、信憑性の観点でここでは採用しない。 - まず、この記述は呉側の【天子になったつもり論】で書かれている可能性があるので、その部分を考慮しなくてはならない。つまり【荊州を貸与した】と言うのは嘘である。事実認識的に荊州全土を貸与するなどあり得ない。貸与したのはあくまでも南郡一つであり、その南郡の返却要請から南部四郡譲渡を引き出すのが孫呉の計画である。魯粛が言ったのは南郡を返そうとしない、また南郡の代替として南部の郡すら返そうとしないという事であり、ある者が言ったのは土地(南郡・あるいは南部四郡)は徳のある者(その地で基盤を築いている者)に属する・・という事だ。この会見を見れば、魯粛は義の押し売りによって譲歩を引き出そうとしているのがよく分かる。ある者が言った事は、ある意味正論であるのだが、当時の価値観から言えば不義でもある。
- 益陽で軍事衝突が起きなかったのは、魯粛の外交成果だけが理由ではなく、そもそも関羽も軍事衝突を望んでなかったと思われる。曹操が漢中に進出している状態でもし荊州に軍が釘付けとなれば、益州すら失い兼ねない。よって、関羽が用いたのは【後方撹乱】であった。安成・攸・永安・茶陵の長が孫呉に反旗を翻して、陰山に立て籠もったのは、おそらく和睦成立前の事である。でなければ、和睦以前に零陵を制圧していた孫呉が、和睦の段階で零陵を譲歩する理由がない。つまり、この後方撹乱作戦が功を奏しているのである。占領した土地が次々と反旗を翻して行くと、孫呉は非常に困る。そもそも土地的基盤はないから、反乱が起きても不思議ではない。よって七月に曹操が漢中に侵入し、劉備が和睦を申し込んだ事は、孫呉にとっても朗報だった。抜き差しならない所まで行ってしまうと、困るのはお互い様だったのだ。この機会を逃すと、双方、国家経営が頓挫してしまうので、一度は攻め落とした零陵を孫権は譲歩した。また、この時の反乱鎮圧で呂岱はきちんと敵将を捕らえたのに対し、魯粛は敵将を逃してしまっており、ここでも魯粛の軍事資質は呂岱には及んでいない。
- 結局、この荊州争奪戦は、湘水で荊州を東西に分割。江夏・長沙・桂陽を呉、南郡・武陵・零陵を蜀が領有する事で、和睦が成立した。おそらく孫呉は荊州南部四郡を切り取る(武陵については不明)つもりだったはずであるから、成功と言えるかどうか?は微妙である。だが、はっきりしているのは、魯粛の南郡貸与策の結果、南郡に固執すれば荊州全土から権益を失しないかねなかった状態から、少なくとも荊州の半分の権益は確保し得た・・・という事である。 ▲▼