【 荊州問題へのプロローグ 】
- さて。実を言うと、この第12話からが、魯粛伝の本題になる。今までの所は三国志をそのまま読んで解釈を加えたに過ぎない。ってホントですよ(汗)。三国志をそのまま読めば、この男は、危険なる狂児・自由人・人間びっくり箱・しゃべる起爆剤・・・・です。決して、誠実なお人好しでもないし、単なる長期的展望力を持った戦略家でもない。展望力があるにしては誤算がつきまといすぎる。言うなれば、「価値観に捕らわれない自由な発想力を根底とした構想家」である。
- 話を戻して(笑)。ここからが本題だ・・と言うのは、荊州借用問題という最大の難関に差し掛かって来るからである。この荊州借用問題というのは、三国志をいくら読んでも答えは出ない。隠された部分というのを探って行かなくては成らないからだ。つまりは、ここから先の部分は推論に過ぎず、しかも想像による物である。また、ここから先の部分はむじんさんとのメールの遣り取りにヒントを得た部分も多く、まず謝意を表しておきます。
- そもそも荊州借用問題の実態に近づくには、呉側と蜀側の双方の文献を照らし合わせる必要がある。しかし、蜀側の文献が少なすぎるため、その実態の把握は困難を極める。それに三国志を著した陳寿の姿勢という問題が孕み、荊州借用問題は三国志の中でも一、二を争う難解な部分となっている。
- 一例を挙げる。元・蜀の士官で晋の麾下にあって三国志を編纂した陳寿は魏を正当王朝とした。だが一方で、極めて巧妙に蜀のステータスを向上させる方法論が見られる。これは筑摩の解説にある通り。逆に呉に関しては、制約的な部分がほとんどないため、極めて史実に近い形で書かれている可能性がある・・・のは事実である。実際、私も呉書を読み解く際には、陳寿の本文にウェートを置いて、注として挿入される江表伝や呉録は参照程度としてきた。だが、孫堅・孫策・孫権などの本紀?は、確かに極めて史実に近い形で記されている可能性が高い(例えば、死後皇帝となった孫堅の事は、一環して生前の最高位である将軍扱い。必要以上に持ち上げる部分が少ない。)のだが、配下の列伝に到ると、韋昭の編纂した「呉書」をそのまま、書き写したのではないか?と思われる部分があるのである。むじんさんはこれを【皇帝になったつもり論】として説明しています。
- どういう事か?というと。陳寿は、曹操を「太祖」「公」と呼び、劉備・劉禅を「先主」「後主」と呼ぶ一方で、孫権の事は「権」と呼び捨てにしている。つまり、孫権を皇帝として認めていないというのが、陳寿の基本方針だ。にもかかわらず、魯粛伝・甘寧伝・呂蒙・陸遜伝などに孫権を指して、【到尊】【国家】という言葉が出てくる。これは皇帝を意味しており、つまり韋昭の「呉書」がそのまま掲載されている可能性が高いという事である。となると、陳寿の本文とは言え、そのような「到尊」「国家」などという言葉が出てくる部分では、呉の立場に立った記述がされている可能性があるのである。では、陳寿の本文とて、アテにならないのか?というと、そうでもなく・・・例えば、国家に取って重要な事件であるはずの朝貢記録が本紀(孫権伝)に書かれず、呂岱伝に書かれてるなど、陳寿が丸写しせずにきちんと編纂した跡も見られ、その「丸写し部分」と「編纂部分」との差違を完全に見分けるのは、ほぼ不可能に等しい。強いて言えば、本紀には編纂跡が多く、列伝には丸写し跡が多い・・というくらいである。
- だが、なぜ陳寿が韋昭の「呉書」を丸写ししたのだろうか?という部分を解釈に持ってくると、韋昭の呉書は事実を曲げている部分は少ないと陳寿が判断したからとも言える。さすがに、多くの書を取捨選択し、簡潔に事実を記そうという姿勢の見える陳寿が、信憑性の低い書を丸写しするとは思いがたい。つまり、荊州問題の実態に近づくには、陳寿の本文の事実関係のみを分析し、人物の言葉や形容詞を一切切り捨てて考えるしかない・・・というのが、結論である。
- さらに、三国志の記述の信憑性の問題だけではない。読む我々側の先入観という問題が存在する。つまり、我々もまた一度、思考を真っ白にして考え直さなければ、以外な落とし穴に墜ちかねない。そうした部分を極力、差し引いて新たに考え直す。そこに魯粛の今までの行動・思考パターンを組み合わせ、私なりの荊州問題論を書いていきたいと思う。
- ・・・・・・って、今回は、これで終わりか(爆)?魯粛伝は何処へ(笑)? ▲▼