【 魯粛の勝利宣言 】
- 柴桑会議において最終的に孫権に抗戦を決意させたのは周瑜であった。魯粛は軍事には疎い。勝ち目があるのか無いのか?が焦点である柴桑会議で決着をつける事ができるのは軍事戦略論であり、これは魯粛の得意分野ではなく周瑜の得意分野であった。仕方のない話で、彼は今まで軍を率いた事は一度もないのだ。魯粛が行軍に参加したのは、この赤壁の戦いが初めてである。
- 魯粛は賛軍校尉として参戦した。筑摩の訳には総参謀とあるが、この官位が総参謀と言うべき物なのか?は、はっきりとした事は言えないだろう。この役職名、この時以外に出てこないからである。ただし、魯粛が実戦部隊を率いた雰囲気はなく、確かに参謀的な役割を持って参加したと思われる。しかも、この賛軍校尉というのは、魯粛が孫呉政権で初めて得た官位であった。
- 赤壁の詳細については、孫権伝・周瑜伝で詳しく触れたので省略する。結果、孫呉はほぼ単独で曹操に勝利した。この勝利により、曹操は江陵に曹仁を残して荊州から退却、許に戻る。まず、この時点で江夏から曹操を追い払うのに成功した。これにより、孫呉は赤壁以前は領有できなかった江夏を初めて支配下に治める。この後の荊州事情の確認のためにも必要になるのではっきりさせておくが、赤壁以前はこの地は劉琦が治めていた。この赤壁の戦いによって、支配権が孫呉に移行したのだ。すでにこの事自体が、複雑化する荊州問題の発起点である。
- とりあえず、この話は後述。赤壁の戦いの後、周瑜は江陵の曹仁を攻め、丸一年かかってこれを落とすのに成功。ここに至って、初めて魯粛の覇業論は第二段階に突入した。最大の要所・江陵を手に入れたのだ。しかもほぼ単独で。208年に曹操が荊州に侵攻し、劉備が江陵制圧に失敗した時点で、江陵の支配は絶望的だった事を考えるとまさに起死回生である。兎に角、揚州・荊州の長江流域を全て押さえた事で、北の脅威に対抗しうる土壌が整った。また、江陵まで押さえると言う点に周瑜の戦略の目標があったという事は、周瑜は、長江流域を悉く押さえて北への対抗策とする魯粛の覇業論に賛同していた事を意味している。
- 魯粛伝に寄ると、魯粛は曹操を追い払うと、真っ先に飛んで帰ってきた(笑)。実戦部隊ではなかったので、身軽だったのだ。ただ、これは赤壁の後ではなく江陵制圧戦の後だろうと思う。赤壁直後は孫権も合肥に布陣しており、そもそも魯粛は江陵こそ最大の要地としていたのだから、江陵を落とさない事には帰還する訳にはいかない。場所はどうも京城のようである。
- 魯粛が帰ってくると、孫権は部下を集めて宮門の前で魯粛を出迎えた。この時点で孫権は、周瑜と魯粛この二名の功績を高く評価していたのだ。この赤壁の勝利と江夏・江陵を押さえる事に成功したという二点。これは魯粛の構想力と周瑜の軍事戦略能力の合作によって為された奇跡である。奇跡と言って良いはずだ。それ以前は5年もかかって、江夏一つが落とせなかったのだから。
- 魯粛が拝礼すると、孫権は
- 「私が馬の鞍を支えて、貴方を馬から迎え降ろしたら、貴方の功績を十分に彰した事になるかな?」
これを聞いた魯粛は孫権の前に進み出るとこう言い放った。- 「不十分でございます。」
- 「願わくば、殿のご威勢が天下に広く行き渡り、天下を統一して皇帝として君臨なさり、安車蒲輪(天子が賢者を召し出すための特別な車)で私を召し出されて、初めて私を十分に顕彰した事になるのです!!!」
- そもそも、魯粛は曹操を悪だなんて思った事は一度もない。一度は曹操に仕えようとした形跡まで見える男である。発想力がぶっ飛んでいるので、いわば自己実現のために孫呉に仕えたと言っても良いくらいだ。漢王朝なぞ魯粛の価値観の中に存在していないのである。そして、孫権も本音の部分では同様なのだ。そして、はしゃぎすぎのように見えるこの一件は、魯粛の勝利宣言であると言っても良い。曹操に対する勝利宣言ではない。魯粛が、孫呉政権の中で極めて重要な発言力を持つに到った事に対する勝利宣言である。柴桑会議では発言権すらなく、隅っこでじっとしているしかなかった男が、今このような危険発言を公の場で行う事ができる。逆に、張昭ら北方名士たちの発言権は赤壁を境に急落し、立場は逆転した。一切の価値観に捕らわれる事のない自由人・魯粛。自由人であるからこそ持ちうる発想力のみを武器として、この男はここまでのし上がったのである。 ▲▼
- (注)今さらこんなことを書くのはなんだが、「魯粛伝は出来すぎている」感がある。
まず4話「魯粛離反?」で話題にした劉曄の手紙の整合性が合わない件。これは「魯粛伝に引用されている劉曄の逸話は、その後の周瑜の魯粛を引き留める言葉を引き出すための引用ではないか?」と考えてみる(あくまで仮説)。つまり周瑜に「天運をうけて劉氏に替わる者は江東に現れる」と言わせたいが故の引用ではないかと。普通に考えて名士・周瑜がこうした言葉を吐くとは考えにくい。その周瑜の言葉が前段としてあり、それを受ける形で魯粛の覇業論「皇帝を目指せ」が始まる一連のストーリーが出来上がる。
続いて、柴桑会議の場面。魯粛は孫権に「私は曹操に降伏しても用いられるけど、あなたは用いられないですよ。」という言葉。これも現実的に考えれば、実際に魯粛が言ったとは考えにくい。だって、嘘だもん(笑)。魯粛も孫権と同類なのだ。降伏してはならないという魯粛の考えを孫権に伝えたのは事実だとしても、こういう説得の仕方はない。
そして、今回の「勝利宣言」。魯粛の本音がそこにあったとしても、公衆の面前でこれは「ない」。あったとしても、誰も見てない所で孫権と魯粛が密かに・・だ。
つまり、魯粛伝に出てくる魯粛の言葉は「孫権を皇帝に祭り上げたヒーロー」として脚色されている感が強い。他伝に比べ、その色合いが濃いのである。これは蜀書における諸葛亮伝にも同じことが言える。「国家理念を背負った存在」になっているのである。
- (注)今さらこんなことを書くのはなんだが、「魯粛伝は出来すぎている」感がある。