【 209年の荊州事情 】
- 荊州借用問題は赤壁直後の209年から始まっている。前回言ったように、三国志の中でも特に重要な部分である曹操・孫権・劉備の本紀からまずは洗っていく。ここに書かれている事が三国志内で最も事実性が高いと思われるからである。
【孫権伝本文】- 209年、周瑜と曹仁とが守りを固めて互いに対峙する事一年を越え、死傷した者が多数に及んだが、曹仁は(江陵)城を捨てて逃亡した。
- 209年、孫権は周瑜を南郡太守に任命した。
- 209年、劉備が上奏して孫権に車騎将軍代行の任が与えられ、徐州牧を兼任する事になった。
- 209年、劉備は荊州牧の職務に当たり、公安にその軍を留めた。
【劉備伝本文】
- 恐らく209年、劉備は上奏して劉琦を荊州刺史とする一方、南の四郡の征伐に赴き、武陵太守の金旋・長沙太守の韓玄・桂陽太守の趙範・零陵太守の劉度らを全て降伏させた。
- 恐らく209年、廬江郡の雷緒は配下数万を率いて帰順した。
- 恐らく209年、劉琦が病死すると、群臣たちは劉備を荊州牧に推し進め、公安を州都とした。
【曹操伝本文】
- 209年、三月、曹操の軍は譙に到着した。軽快な船を造って水軍を訓練した。
- 209年、七月、合肥に陣取った。曹操は「疫病の流行もあり、官士のうち死亡して帰還しない者もいる。死者を出した家で自活できない者に対して、県官は官倉からの支給を絶っては成らない。」と布告を出した。揚州の諸県に長吏を置き、芍陂に屯田を開設した。
- 209年、十二月、軍は譙に帰還した。
- 以上が曹操・孫権・劉備の本紀の本文である。曹操伝は月まで明記しているのに対し、孫権伝では月は記されず、劉備伝では年の区別すらはっきりしないのが特徴だ。劉備伝では209年の出来事の可能性が高い記述を記載した。
- まず分かるのは、赤壁後、曹操はすぐに譙、続いて合肥に布陣。つまり、揚州方面に軍事的緊張があった事が分かる。一方で周瑜と曹仁は南郡で一年近く激闘を繰り広げているにも関わらず、曹操も孫権も援軍を出した形跡が見られない。つまり、曹操の合肥への布陣は孫権に対する牽制であり、そのために孫権は周瑜に援軍を送る事ができなかった。その状況の中で周瑜はなんとか南郡・江陵を制圧。一年近くかかったとあるので、209年の終わりの事だ。江陵が墜ちたので曹操は軍を譙に戻す。この段階でやっと208年から続く一連の戦いは終結したと言って良い。赤壁の戦いがあまりにクローズアップされるので、赤壁が終わった時点で戦争が終結しているようなイメージすらあるが、実際には209年終了時まで戦争状態は継続していたのだ。この丸々一年以上に及ぶ戦争状態の継続と、孫権と劉備の、同盟なのか共同軍なのかイマイチはっきりしない状態の継続こそが209年の特徴である。
- 一連の曹操との戦いの終結を受けて、209年のうちに孫権は周瑜を南郡太守に任命。続けて劉備が孫権を車騎将軍代行・徐州刺史に任命する。江陵城が落ちてからの事であるから209年の末の事である。ここまでは問題ない。だが孫権伝では、209年の段階で劉備は荊州牧となっているのに対し、劉備伝では、【劉琦を荊州刺史に上奏】【南部四郡を攻略】【廬江の雷緒の帰順】【劉琦の病死】【群臣に推され劉備が荊州牧となり、公安に州都を置く】という多くの出来事が、劉備の荊州牧就任以前の出来事として記載されている。
- よって、劉備が劉琦を荊州刺史に上奏したのは、赤壁の戦いの直後あたりと考えた方が自然となる。以前にも少し書いたが、そう考えると江夏の支配権が孫呉に移行した理由が分かりやすい。もし劉琦が江夏太守のままであったなら、程普が江夏太守となれるはずがないのである。赤壁後、すぐ周瑜が江陵攻略に取りかかったとしても、江夏を空にできる道理はなく、誰かが押さえに残らなくてはならない。普通に考えれば江夏太守の劉琦のはずだが、おそらく程普は初めから江夏の押さえとして夏口に駐屯していたと思われる。つまり、この時点で劉琦は荊州刺史となっており、空きとなった江夏太守として程普が駐屯したと考えるのが自然である。(太守の任命自体は後追いかもしれない。)この段階では孫・劉の勢力的区別は曖昧で、荊州刺史・劉琦の元で程普は江夏太守となっているのだ。
- また、このタイムテーブルで考えるなら、【江陵制圧戦に参加したのは関羽・張飛ら劉備軍の一部であり、主力は南部四郡の制圧に向かっていた。】と考えた方が自然である。南部四郡の攻略と言うのは、短期間に可能なはずがなく、少なくとも数ヶ月は要している。軍の移動だけでそれくらいはかかる。つまり、劉琦が荊州刺史となったのが(209年末の)江陵陥落後であるならば、タイムテーブルに無理が生じてしまう。劉備の南部四郡攻略が210年にずれ込んでしまうからだ。そうなると、後の京城会見のタイムテーブルや劉備伝と孫権伝の記述に食い違いが生じてしまい、あまり自然な解釈とは思えない。
- であるならば、江陵攻略と南部四郡攻略は同時並行で行われたと見た方が良い。もし、同時並行で攻略可能であるならばそれに超したことはない。むしろ、周瑜が江陵を攻めている間に南部から反抗を食らうような事があれば、挟み撃ちの危険性すら孕む大問題であって、一刻も早く南部四郡を攻略する必要性は高い。だが、ここで問題となるのは、劉備軍の兵力である。赤壁の時点では、どう見積もっても一万以下の軍容としか思えない。
- 面白いのは、廬江の雷緒である。彼は夏侯淵に敗れ、廬江から配下数万を引き連れて劉備に降っている。だが、廬江から公安に行くは長江を遡るしかなく、その間には柴桑・夏口と言った地点を通過するため、孫呉の仲介なくしてはこの投降はあり得ない。部局数万と言うのが事実なら、軍兵として強力な補給にはなる。その意味で劉備の本伝に記載された可能性はある。なぜ、雷緒が孫呉ではなく劉備に降ったか?という部分は、李術の反乱の際、雷緒は李術に荷担していたという点があるだろう。つまり、雷緒としては劉備に降るしか方法がなく、その際に孫権はそれを黙認した可能性が高いと思われる。
- また、雷緒のような例が一人だけではなかったというのは蜀書を読めば分かる。廖立・向朗など、多くの荊州人材がこの時期、劉備に従っているからだ。(劉備が荊州牧となってから参入した場合も多いが、劉表死後に参入したという記述のある人物も多い。)雷緒の場合は遠く廬江からかなりの部曲を従えて投降したため、本伝に記載があると思われるが、そこまで行かなくても、曹操が破れ、劉表の長子・劉琦が荊州刺史となったのであれば、曹操派か反曹操派か態度を明確にしていなかった荊州の有力者たちが、一気に劉琦(つまり劉備)の元に集まってきた可能性が高い。そもそも、赤壁前から荊州での劉備待望論は根強く、状況が変われば劉備は一気に勢力を増強する事が可能だった。だからこそ、魯粛は劉備を中心に荊州を纏めさせようとしたのである。つまり、209年頃になると、赤壁では何も出来なかった劉備勢力は、少なくとも江陵の周瑜軍と同レベルの軍容を持っていたのでは?と思えなくもない。そうでなければ、江陵と南部四郡の同時並行攻撃は不可能だろう。
- また、劉琮が降伏した時点での南部四郡に対する曹操の方策は、【郡の士官たちの編成は行わず、郡太守のみを着任させていた】可能性が高い。
例えば、黄忠は劉表麾下の中郎将だが、劉琮が降伏すると曹操は黄忠にそのまま職務を執り行わせ、長沙太守・韓玄の統制下においた・・・とある。また、韓玄はその後詳細不明だが、黄忠は劉備に臣下の礼を取ったとあり、長沙は降伏したのかもしれない。
金旋は中央(許)で議郎に任命されていたと三輔決録注にあり、曹操の人材である事を臭わせる。彼は劉備に攻撃され死んだとある。
趙範は太守の座を趙雲と交代したと趙雲別伝にあり、どうも降伏したようだ。だが、その後逃亡とある。劉度に関しては一切記述がないので不明。 - こうした点を考えると、太守だけは曹操が派遣していたが、郡内部は以前として劉表麾下の者が多く着任しており、南部四郡のうち半数近くは、戦わず降伏したと思われる。実際、劉備伝の記述は【降伏させた】とある。彼らが降伏したのは、劉琦を旗頭とする軍が来たからだとしたら、劉備は南部四郡攻略において最適任者である。つまり、攻略のための兵力としてはそれほど必要がなかった可能性もある。
- そして、209年の暮れに劉琦が病死した。すでに赤壁前後から病状は悪化していたのではないだろうか?少なくとも劉琦の軍は赤壁の時点で健在で、しかも土地勘のある水軍部隊であるにも関わらず、彼の軍功らしき形跡が一切ないというのは、おかしい。もしかしたら、劉琦の病状悪化のため、軍として機能しなかった可能性もある。
- 以上の事に、他伝の記載を重ねてみる。
- •劉備は周瑜に「張飛に千の部下をつけて同行させるから、二千の兵を分けてほしい。両軍で曹仁を攻め退路を断とう。」と言った。(周瑜伝注「呉録」)
- 劉備は江陵攻略戦の際、北道に関羽を派遣し、曹仁を退路を断とうとしたが失敗した。(李通伝)
- 周瑜は南郡太守となると、下雋・漢昌・劉陽・州陵を奉邑として拝領した。(周瑜伝)
- 程普は裨将軍・江夏太守となり沙羨に役所を置いた。四県を奉邑として拝領した。(程普伝)
- 劉巴は曹操のために長沙・零陵・桂陽の帰順を呼びかけたが、劉備がこの地を攻略したため、交趾に赴いた。(劉巴伝)
- この辺りの記述が、劉備の荊州牧就任以前の事ではないか?と思われる。周瑜伝注の呉録と李通伝の記述は江陵攻略戦に関羽・張飛が同行した事が書かれている。呉録によると、劉備は共に江陵を攻めようと言っているが、共に攻めるならなんのために部隊交換が必要なのか?がイマイチ不明である。むしろ、関羽・張飛を江陵攻略戦に加える替わりに、(南部四郡攻略の)劉備の部隊に周瑜の兵を同行させた・・・と考える事もできる。まあ、これはこじつけの部類だ。だが、劉備の荊州牧就任後、関羽と張飛の二人だけが、長江北岸に駐屯していて、それ以外の人材は全て南部四郡に駐屯している事を見てもあながち間違えとは思えない部分もある。関羽・張飛だけが、この時本隊を離れ周瑜に同行していたとすれば、後に周瑜が「関・張を私が扱う」と言い出したのも理解しやすい。そう考えると、荊州南部四郡の太守に、趙雲や廖立が指名された理由も分かる。本来、長年の功績を考えれば、行軍に参加していたのであれば、関羽や張飛が太守として相応しいはずだ。
- また、周瑜伝に書いたように、この時期、江夏と南郡の太守となった周瑜と程普が共に奉邑を得て、それが荊州に分散して存在している。
- 劉巴伝の記述は、南部四郡を巡り、曹操と孫・劉の間で帰順を巡って暗闘があった事を示している。つまり、南部四郡の攻略もまた一連の戦いの一環である。
- こうした点を総合して考察していくと・・・・・私には、この時期の孫権と劉備は別勢力であったとは思い難いのである。歩調が完全に合っている上に、勢力間の領土分配という感覚がほとんど見られない。入り乱れているのだ。少なくとも、劉備の荊州牧就任以前は。
- 周瑜伝では、この状況を【共同体】と書いたが、むじんさんとの会話の中で、【連立政権】という言葉が出てきて、それがこの状況にしっくり来るので、そう呼ぶ事にする。つまり、同一の軍事行動内の出来事である。曹操は赤壁で負けてすぐに荊州支配を諦めたのではない。江陵が墜ちて初めて荊州(荊楚以南)を諦めた。よって、それ以前に行われた南部四郡の攻略も江陵攻略も、同様の対曹操共同戦線であり、その段階で領土問題は発生していない。
- しかし、対曹操戦線が終結すると、連立政権であるはずの孫・劉政権に亀裂が生じ始める。それが劉備の荊州牧就任であり、それに伴う劉備麾下の将の各荊州太守任命である。実際、孫呉麾下で太守として存在したのは、周瑜・程普の二名だけであり、それ以外の郡には全て、劉備麾下の将が任命された。つまり、荊州支配で孫呉は遅れを取ったのである。これは別に能力云々の問題ではない。そもそも、荊州は劉表勢力の土地であり、その流れを組む劉備勢力が土着的に有利なのである。後で出てくる【荊州借用】という言い方自体がまやかしなのだ。孫呉勢力は赤壁と江陵制圧戦で、戦勝した事により江夏と江陵を支配できたに過ぎない。また、この状態、つまり連立状態をいつまで続けるのか?という点が今後の焦点であり、そのために荊州牧就任後、早々に劉備は孫権の元を訪れた。それが混乱の京城会見である。 ▲▼