【 魯粛の覇業論 】
  • 魯粛が北へ帰ろうとしていた頃の孫呉は、反乱・離反が相次いでいた。実際、元・豫章太守の華歆・廬江太守の李術・盧陵郡太守の孫輔と言った大物の離反騒動が続けざまに起きている。それに比べれば、江東に来てはいたが表だった行動をしていない魯粛の離反は、些細な事件として捨て置かれていた可能性もあった。魯粛は江東豪族ではないから、離反したとしても基盤的損失には当たらないからである。
  • しかし、一人この魯粛の行動に待ったをかける人物がいた。周瑜である。
    魯粛伝の記述によれば、【丁度その頃】周瑜は魯粛の母を曲阿に連れてきていた・・とあるので、周瑜は魯粛の離反を予見し防衛策を取っていたようにも見える。まあ、実際には、魯粛が北に帰るに当たって勧誘してくれた周瑜には筋を通そうと挨拶に訪れたくらいが、正解だろうとは思うが。魯粛に会うと周瑜は
    • 今は臣下も君主を選ぶ時代です。孫策殿の後を継いだ孫権殿は賢者を尊重していますし、密かな議論によれば天運をうけて劉氏に替わる者は江東に現れるという説があります。つまり、江東にこそ大志を抱く者が活躍できる土壌があるのです。今、やっとその手がかりを得たばかりなのです。劉曄殿の言葉は意に介さないのがよろしいでしょう。
    と言う。
  • この周瑜の言葉はある意味、奥が深い。まず、彼が忠・義と言った観点で魯粛を思いとどまらせようとしていないのが分かる。こういうシチュエーションで、忠義の価値観から相手を留まらせようとするというのは、結構ある事例だし、まずはそこから入る場合が多い。だが、周瑜はその点についてはむしろ【臣下も君主を選ぶ時代】と明言している。なにしろ孫呉陣営で最も、魯粛と交友があるのは周瑜である。魯粛がそんな儒教的価値観を軽視している事くらいは周瑜には分かる。また、【劉氏に替わる者】という言い方も、後漢の司空・太尉を輩出した名家の人間の発する言葉としては信じがたい物がある。つまり、この言い方は全て魯粛の思考回路を理解した上での発言であり、周瑜はすでに魯粛の覇業論を聞いていて、魯粛を江東に必要な人材と見込んで、説得に当たった可能性が高い。つまりは、離反する前に孫権を見ていけ・・という事である。ただ、当時の認識として、こうした言葉はある程度自由に作って良い・・という暗黙のルールもあるようだし、現実的に考えれば、魯粛の喪が明けるのを待って周瑜は孫権に魯粛を推薦した・・というのが正解だろうとは思う。実際には、当時の魯粛は周瑜の管轄内にあった。後の龐統も似たような位置にあった。そこに劉曄が割って入った訳だ。
    • (注)前述のように、こうした言葉はある程度、自由に作ってよいという前提がある。冷静に見れば、名門の周瑜が「天運をうけて劉氏に替わる者」なんて言うはずがない。前回述べた劉曄の手紙も時系列上、誤りがあり、都合よく作られた感がある。周瑜が魯粛を引き留めたというエピソードのために時系列を無視してつなぎ合わせたのではないかとも思われる。それくらい、この周瑜の言葉は「魯粛的」だ。
  • 孫権の方はどうか?当時、孫権は孫策の死によって揺らいだ江東の基盤を固めるため、特に江東の土着豪族たちとの融和路線を敷いていた。よって、魯粛のような北方からの移住系よりも、陸氏のような土着系豪族の取り込みの方に力点があったとは思われる。だが、周瑜の強い推薦もあり魯粛という男の考え方に触れておこうという気になったようである。孫権は酒宴の席で魯粛と会談。賓客たちが退場した後、魯粛だけを残して向かい合って酒を飲む。この場面で、初めて魯粛の覇業論が公となる。時は200年前後。諸葛亮が劉備に隆中対策を説くより6・7年も前の事だ。
  • 孫権は魯粛に
    • 今、漢王朝は乱れている。私は斉の桓王や晋の文公のように成りたいと思うがどうか?
    と聞く。桓王・文公はいずれも戦国の覇者。つまりは漢王朝再興の功労者となりたいと言う事である。これはおそらく魯粛にだけ言った台詞ではなく、多くの人材に対してこの言い方をしたはずだ。聞く方は極普通の切り方をした。だが、聞かれた方の切り方はとんでもない物だったのである。
    • 貴方が漢王朝再興を目指しても、曹操が立ちはだかり、その道はどこにもありません。私が思うに、漢王朝の再興なんぞ不可能であり、曹操を取り除くのも今すぐは難しいでしょう。孫権殿に取って最良の策は、江東の地に鼎峙しつつ、天下のほころびをよく観察する事です。これが大方針です。北方には山積する課題が山ほど在り、北方はその処理に追われます。その間に、我々は黄祖を除き、軍を進めて劉表を討ち、長江流域を悉く制圧します。その上で帝王(皇帝)を名乗られて天下全体の支配へと駒を進めていく。これが覇業です。
  • まず、この提言の危険性を吟味したい。魯粛は当時の名士たちの共通意識であった漢王朝再興をいとも簡単に否定してのけた。この点が諸葛亮の隆中対策との決定的な違いである。漢王朝再興を旗印としていないが故に、孫権が帝王となると言う、当時の孫権からすれば寝耳に水の発言が飛び出してくる訳である。当時の孫権は江東の4・5郡すら完全に掌握できない。
  • 次に、魯粛の提案は、最終的には天下三分ではなく、二分となる策であるという点が特徴である。
    まず、魯粛の最終目的は【長江流域を悉く制圧する】事である。つまりは、黄祖(江夏)を足がかりに、劉表(荊州)を制圧し、その後、長江流域悉く制圧する(益州まで攻め上る)という事だ。長江を全て押さえるのは二分には欠かせない条件であり、この方針に周瑜独自の戦略を足して再現したのが周瑜の天下二分策である。つまり、周瑜の天下二分策と魯粛の覇業論は、その途中経過と漢に対する意識に違いがある物の、二分するという点は同じなのだ。魯粛の覇業論は鼎峙(三つの勢力の一つの足として対峙する)という言葉が入っているために天下三分の策と捉えられる事もあるが、この場合の三本の足は、曹操・孫権・劉表を指していると思われる。当時の三大勢力と言えばこの三つだ。三大勢力の一鼎としての地位を確立し、一つ目の鼎である曹操に対抗するために、二つ目の鼎である劉表の基盤を手に入れようということである。簡単に言うと、江東の基盤を固め、もう一つの勢力である荊州・劉表のほころびを観察し、その好機を狙って併呑する・・という意味だと解釈できる。この考え方は魯粛式戦略の基礎基本たる部分である。
  • また、この魯粛の覇業論は、天下統一論と言うより、あくまでも孫呉に乱世を生き延びさせ、国として成立させるための策という感触を禁じ得ない。実を言うと、諸葛亮の隆中対策も似た傾向を持っていて、あくまでも流浪の劉備一党を基盤を持つ国家として成立させるか?という点に力点が置かれていると思っている。二分・三分と言うと聞こえはいいのだが、その実、中原を押さえる北方勢力とマトモに対抗し得る力は南方にはない。ただし、地勢的な問題から鼎立する事は可能である。つまり、この魯粛の覇業論は
    • 漢王朝の存在を端っから無視している。
    • 長江の防衛地形を盾に、まず天下を三分し、状況を見て二分に移行する。
    • 最終目的は孫呉を国家として成立させ、孫権を皇帝とする事にある。
    という三点が特徴なのである。後から、我々が当時の状況を把握した状態から見れば、至極当然の現実論に見える。だが当時の情勢で、ここまでドラスティクに国家という物を割り切り、人々の持つ価値観にアンチテーゼを唱えた思想は、魯粛の覇業論以外に存在し得ないのではないだろうか?江東に鼎立するという考えは、おそらく魯粛の独創ではあるまい。孫策が基盤として江東を選んだ背景には、地元という事もあるが、【江東は難を避けるに足る土地である】という判断が入っている。この判断の指標には、張紘・朱治らの考えも入っており、そこまでなら、理想論だけではなく現実も見る事ができる士人なら理解し得た。だが、多くの士人は漢王朝という存在を無視し得ず、あくまで曹操の勢いが盛んなので、難を逃れ江東に鼎立し、時期を見て傀儡の帝を救出するという価値観が存在した。孫策などはまさにその価値観に沿った人材を登用し、その方針を実行しようとした。だが、その方針を実行しうる軍事的天才が死去し、目標を失いかけた孫呉がこれからどのような方針を立てるか?という事について、具体的に提案を行った人間は魯粛ただ一人なのである。
  • この提案を聞いた孫権は、にわかには賛同しかねた。あまりに当時の孫権からすると、突拍子もない提案だったのである。孫権は
    「私は漢の臣であり、貴方の言われるような事は考えた事もない。」
    と返答する。だが、この魯粛の提案は、孫権に取って大きなターニングポイントになった。後に孫権は魯粛の美点として、何回かこの覇業論を唱えた時の事を述べ、魯粛を鄧禹(光武帝に覇業を説いた人物)に例えたりした。まさしく、この魯粛の覇業論こそが、孫呉版・隆中対策と言えるのである。