【 異端児 】
- 国家が強力な力を発揮するには、君主の主導力と家臣団の役割分担の二つが必要である。大体の場合、部隊長レベルでの勇猛な部隊長と、行政レベルでの有能な行政官というのは、どこの国家にも存在する。だが、滅多にいないのが、優秀な軍事司令官と、国家構想力に優れた政治家。この二つがいない事が多い。いたとしても、君主がその能力を見抜けず、適材を配置できない。国が滅びる時というのは、外圧のみで滅びるという例は滅多になく、君主と家臣団の能力・構成の問題が元で滅びる。
- 偶然にも、この時期の孫呉はこの滅多にいない二つが存在していた。優秀な軍事司令官は周瑜であり、国家構想力に優れた政治家が魯粛である。つまり、家臣団の方は強力な配置ができあがってた。これが後の赤壁の勝因となった背景である。だが、残念な事に当時の孫呉には、もう一つの要素である君主の主導性がなかった。これは孫権の資質の問題ではない。勢力としての成り立ちがそうなってしまったのである。
- この君主の主導性の問題。これが当時の孫呉の最大のネックだった。柴桑会議を見ても分かるように、当時の孫権は君主と言うより議長に近く、あくまでも群臣の意見を調整するために機能していた。孫呉はここに到るまでに三代も君主が替わっており、その度に、家臣団の編成が変化した事がその主要原因である。
- (注)ちょっと違う。当時の孫権が議長に近かったのは、孫家が三代も君主が変わったからでも、家臣団の構成が変化したからでもない。そもそも孫軍閥という構成自体の問題がそこにある。
孫軍閥は孫策が袁術から自立するまでは、あくまで袁術の部下であった(ただし袁術旗下の武門の中では、かなり異質で江東豪族への影響力は大きい)。その孫策が袁術から自立する過程において、孫家を中心とする江東豪族グループができあがった。呉景・徐琨・朱治・孫賁・孫静・周瑜。これらの孫家に近い豪族グループにより構成されていた軍閥が孫軍閥である。その繋がりは多分に超法規的であった。牧であった劉表・劉焉は合法的に州の軍事権を持っているが、ただの会稽太守に過ぎない孫策には、そんな権限はない。ないにも関わらず、孫策は丹陽・呉・会稽の軍を動かして、雑号将軍の分際で荊州牧を討伐しに行っているのである。
その状態で孫権は孫策の後を引き継いだ。そもそもが超法規的な繋がりであるから、基盤は弱くちょっとしたことで崩れ落ちる。よって家臣団との調和を計る必要があり、そのために孫権は議長的になっていったのである。当時の孫権に主導性がないのなんて当たり前なのだ。そもそも国として成立してないし、ただの会稽太守なのだから。ただの会稽太守がなぜか江東豪族のリーダー的存在になっていること自体が、本来はおかしな事なのである。
- (注)ちょっと違う。当時の孫権が議長に近かったのは、孫家が三代も君主が変わったからでも、家臣団の構成が変化したからでもない。そもそも孫軍閥という構成自体の問題がそこにある。
- 孫堅期は孫堅自体が武官であった事から、その家臣団は武官が中心である。その代表は程普であり、黄蓋や韓当は赤壁の頃になっても、いまだ部隊長レベルに留まっている。また、朱家・徐家・呉家・周家など孫家に近い立場にあった豪族は孫堅期から存在した。
- 次に、孫策期になると、張昭・張紘・秦松など、北方からの移住系名士層を加えていった。同時に軍部からたたき上げの部将を育て上げ、これが孫権期になって有能な武官となっている。逆に、虞家・賀家など例外がない訳ではないが、呉の四姓と言うような有力豪族は参入していない。また、孫賁・孫輔・孫静といった孫家一族を多用した事も特徴である。
- 孫権期に入ると、呉の四姓などを代表とした地元有力豪族を政権に加えていった。陸家・顧家・歩家等、数えたらキリがない。一方で北方移住系名士と言うべき諸葛瑾なども参入している。
- さて、魯粛であるが・・・彼は、北方から参入して来た割に家柄は悪い、という珍しい特徴を持つ。あったのは資金力だ。だが江東に魯粛の基盤はなく、土地を背景とした財力ではないので、魯粛の財力が孫呉政権でどれほど重要だったのか?はかなり疑問である。この北から入った割に家柄が良くないタイプには呂範・潘璋らがいるが、呂範が孫呉政権に加わった理由は、やはり相当に特殊で、孫策個人に惹かれて孫呉政権に参入したという感じがある。潘璋はよく分からん。ただの気まぐれっぽい。酒のツケが貯まって逃げてきたのかもしれん(爆)。魯粛の場合も相当に特殊と言わざるを得ない。元々が徐州・東城の豪族であるから、その地であれば土地的基盤があるのだが、孫呉政権に参入してしまうと基盤がない。名家としての名声もない訳だから、どうして江東に来たか?というと、自らの才能を発揮できる場所を探してやってきた・・という感触が強い。
- さて、もう少し、家臣団編成を考察していく。孫権期になると地元有力豪族が参入して来てるが、その多くは、地方行政を担当していた。例えば顧雍は会稽太守を代行していたし、賀斉は会稽南部都尉だった。全柔は丹楊都尉である。朱家や呉家も同様。その土地ごとの有力豪族をそのまま太守・都尉などに任命することで治安の上昇を図った訳だ。つまり、中央府にはいなかった。中央府にいたのは、その多くが北方系名士層であり、土地的基盤のない魯粛も当然中央府に任用されたのだが、元来、漢王朝の権威やら礼節やら忠・孝やらを軽視しているので、それがどうしても表に出てしまう。しかも名声がある家ではない。明らかに異端児である。と、言う訳で、呉のご意見番・ガンコ親父こと、張昭と折り合いがうまく行かない。事あるごとに「この男は若輩で物事の道理が分かっていない。任用するのは早すぎますぞ!!」と苦言を呈した。あるいは、張昭、感覚的にこの男の持つ危険性を察知していたか?
- 孫権は張昭の言葉を意に介するでもなく、魯粛を重用した・・・と魯粛伝にはある。だが重用したという割には、魯粛がこの時点でなんらかの官職を得た様子がない。正史に記される魯粛の最初の官職は、赤壁の時の賛軍校尉である。これはある意味当然で、何せこの男、ここに到るまでまるで実績がないのである。実績も基盤も持たないこの異端児を官職的に重用したりすれば、家臣団のバランスに亀裂が生じるので、この時点で魯粛を重用できるはずがない。この辺りも諸葛亮にそっくりで、諸葛亮もまた、劉備一党に加わった時点でなんの実績もなく、無官のまま孫呉への使者となった。二人にあったのは国家構想である。だが、孫権にとって魯粛が貴重な存在であるのは確かである。孫権もまた現実主義者であり、おそらく、中央府の高官たちの言う理想論には無理を感じていた。ただ魯粛だけが孫権の進むべき道を指し示していたのである。
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