【 周瑜と魯粛 】
- 時は、196年~7年の頃の事となる。当時、周瑜は、孫策の江東制圧戦に参戦していたが、諸事情により、袁術の元で居巣県の長をやっていた(周瑜伝6【 脱出 】参照)。だが、孫策が丹楊太守の袁胤を追い払った事により孫策と袁術の間に軍事的緊張が走る。周瑜が魯粛を訪れたのはこの時期、あるいはその少し前である。
- 実はこの時、袁術と周瑜の間で、冷戦とも言うべき静かな戦いがあったのではないか?と思っている。孫策が袁胤を追い払った事により、両家は一体ではなくなっていた。よって、袁術麾下として孫策と共に戦ってきた、孫賁・呉景、さらには周瑜らも、その去就を迫られていたのである。
- 当然、袁術も彼らの去就には注意を払っていた。周瑜には軍属として将軍の職を、呉景と孫賁にはそれぞれ太守の座を与え、きちんと功績に報いようとしている。つまり、孫策の元に戻るのを防ごうとした・・と、取れる。だが、孫賁・呉景・周瑜の三名のうち、周瑜が袁術の元に留まるのは絶望的であった。周瑜は袁術の誘いを断り、居巣県の長という閑職に留まったのである。つまり、これは袁術の元にいる気はないという事であり、いつでも、江東に脱出できるように準備を整えていたという事だ。周家と言えば、江東でも屈指の名家であり、袁術とて思うがままに・・・という訳にはいかない。
- 魯粛の話に戻る。魯粛伝には、【周瑜は数百人を連れてわざわざ魯粛を訪れ、食料の援助を求めた。】とある。魯粛がいたのは臨淮郡・東城。周瑜がいたのが廬江郡・居巣県。この二つの場所の距離はそんなに近くない。つまり、本文にあるように、【わざわざ】魯粛を訪問したのである。主眼は食料の援助ではなく、味方になってくれそうな地方有力者と関係を結んでおく事にあった。数百人を連れてきたというのも物騒な話であり、つまりは、途中で袁術による妨害、あるいは捕捉を想定していた可能性がある。
- 一方の袁術の方である。袁術は魯粛を東城県の長に任命した。おそらく周瑜が魯粛を訪れたのとほぼ同時期ではないか?と思われる。つまり、袁術と周瑜の間で、魯粛を巡っての争奪戦が行われている。このような例が魯粛一人であったとは思えず、つまり、周瑜は地方有力者を孫家に味方するように工作を行っていた。 来るべき、袁・孫の対立を想定しての事だ。
- さて、当の魯粛である。魯粛は立身出世を目指し、名士と交流を結んできたのであるから、この袁術と周瑜からの誘いは、千載一遇のチャンスであった。普通に考えれば、淮南の大勢力である袁術に士官し、そこで才幹を発揮していくのが早い。周瑜の誘いというのは、魯粛に官職を与えるという物ではないのだから、どちらかを選べと言われれば、答えは明かのように思える。だが、どうやら魯粛の目はもう少し先を見ていた。魯粛は、周瑜が来ると、二つある米蔵のうち一つをそっくりそのまま周瑜に差し出したのである。周瑜はそれを見て、魯粛が非凡である事を知り、堅い交友を結んだ、とある。・・・こう書くと、美談なのだが、実際はどうだろう(汗)。確かに非凡ではある。所有する米倉のうち半分を提供するなど、常人ではあり得ない。しかも一つの蔵に三千斛とある。【睡人亭】様の所に度量衡の換算プログラムがあるので、それを利用させてもらうと、三千斛は現在の数値で61400リットル。とてつもない数値となる。まあ、誇張がかなーり入っていると思われるが、それにしても、ほぼ家の財の半分をなげうった訳で、明らかに周瑜の誘いの方を魯粛は千載一遇のチャンスと見た訳だ。なんで袁術の任命の方は千載一遇のチャンスではないのか?その辺りの魯粛の意識が問題となる。
- 大体、この時代の名士が袁術を選ばなかった理由は、袁術のやっている事が不忠・不義であったからだ。ただの感情論ではない。儒の価値観から言って、漢王朝を輔くべく行動すべき名家である袁家の嫡子?が、勝手に太守やら刺史やらを任命しているのは、道義に外れる行為であり、袁術からの士官の誘いを受けた陳珪も同様の理由で断っている。袁術が名士層に受け入れられなかったのはそのためだ。では、魯粛も同様か?というと、おそらく違う。もし、それが理由であるならば、袁術同様の反逆勢力であり、しかもその基盤はお世辞にも盤石とは言いがたい孫家に味方するという決断はあり得ない。周瑜の誘いに乗るという事はそういう事だ。では、なぜか?
- 一つには、すでに袁術は落ち目であったという点である。197年の春に袁術は皇帝を僭称。後の三人の皇帝が出るという三国時代を先取りしたとも言えるが、さすがに早すぎた(汗)。魯粛自体は、別に袁術の皇帝僭称を不義だの不忠だのとは思っていなかっただろうが、名士層にそっぽを向かれては先がない。つまりは、袁術の行く末を察知して、緊急避難的に周瑜に従って江東に逃れたという事である。この場合、魯粛は孫家に仕えたというより周瑜に従ったという感が強く、魯粛は孫策期には孫家に仕えた訳ではなく、周瑜に仕えた(従った)という事になる。ただその場合、三千斛もの物資援助をする必要性は薄く、将来のための投資として周瑜に助力したはずである。
- そして、もう一つは、地勢の問題である。袁術が拠点とする淮南は、長江北岸に当たる。後に魯粛が孫権に語る事となる覇業論から言うと、この地勢はまずい。北の勢力に対して有効な防衛手段を持ち得えない。もし、袁術が長江南岸に拠点をもっていたなら、もしかしたら魯粛は喜んで袁術に仕えた可能性もあるように思える。だが、当時江東に割拠していたのは孫策だった。この江東に割拠するという考えは、孫策独自の物ではなく、すでに張紘・朱治らも江東の地勢に注目し、北の勢力に対抗するには江東を押さえるべしという思想を持っている。魯粛も同様で、注の呉書によると、【江東は難を避けるに足る土地】と言っている。それが魯粛が江東に脱出した理由である。つまり、袁家と孫家を見比べた場合、基盤の強さは確かに袁術ではあるが、将来性は孫家の方が有望だったのだ。
- さらには、魯粛が野心家であるという点である。当時、孫家は江東の豪族と反目しており、北方からの移住者を重用していた。地元の豪族を用いると結局の所、土地の領有権を容認するという事になり、君主権の確立が難しくなる。よって、孫策は文官は北方からの移住者を、武官は自前でたたき上げの部将を育てていくという基本方針を採った。朱家などは例外的なのである。つまり、魯粛は歓迎される客だった。当然、出世もしやすく将来性も高い。であるから、周瑜の来訪を最大の機会と捕らえ、財を投げ打ったのである。
- さて、江東に脱出する事を決定した魯粛は、郷里の者百余名を連れて周瑜のいる居巣を訪れる。当然、袁術の指名した東城県長の座は捨ててきている。呉書の注によると、州の役人(袁術勢力)から追っ手を差し向けられたようだ。その時、魯粛は「時勢の流れは分かるか?今は乱世だ。我々を追跡しなくても罰せられる事はない。我々に干渉するな。」と言い、地面に盾を突き刺し弓で射抜いて見せた。ちょっと出来過ぎであるので、たぶんに挿話が入っているだろうが、この言葉は、実に魯粛という人間の考え方を示している。乱世にこそ、魯粛のような男が活躍する土壌があるのだ。 ▲▼