【 荊州の鼎 】
  • 曹操の荊州進軍、劉表の病死・・・激動の208年を迎えて、魯粛はある進言を孫権に行う。その内容を吟味する前に、もう一度魯粛の覇業論を整理してみたい。
  • 【前提】漢王朝の再興は不可能であり、曹操も今すぐ対抗するには難敵に過ぎる。
    よって・・・・
    • 江東の地に鼎峙しつつ、天下の綻びを注意深く見守る。
    • 曹操が北の処理に追われる間に、長江流域を悉く制圧する。
    • 二分を実現した後、孫権は皇帝となり、覇業を推し進める。
    これが魯粛の基本方針である。だが、この時点で2の曹操が北の処理に追われる間に長江流域を制圧する、という点が危機に陥った。すでに曹操は荊州制圧の軍を起こしている。一方、孫呉は荊州制圧の第一歩である江夏制圧すら達成していない。さらに、魯粛が三本の鼎として挙げていた劉表勢力は当主を失い、後継者争いが勃発するという末期症状であった。
  • 改めて、魯粛の覇業論を見ると、まず【曹操が北の処理に追われる時間】が、魯粛の想定した時間に比べ相当に早まっているという事が分かる。魯粛は華北制圧はもう少し時間がかかると見ていたのだ。この読み間違いは、劉表も陥っており、劉備の許都攻撃計画を時期尚早として採用しなかった。
  • だが、現実的に曹操がすでに荊州に来ている以上、方法論としては曹操から荊州を死守する・・という事が魯粛の最優先課題となった。そこで魯粛の【荊州に弔問の使者として出向したい】という提案が出てくる。
    • 「荊楚の地は江東と隣接し、川の流れは北と繋がり、その外側を長江と漢水が取り巻き、内側には山・丘陵があり、鉄壁の堅固さを備えています。しかも沃野は万里に広がり、人口も多く、もしここを領有する事が帝王たる資本となり得ます。」
    長くなるので、一端ここで切る。まず、魯粛は荊州とは言わず荊楚と言っている。ではこの場合の荊楚とはどこを指すか?というと、外を漢水・長江が流れているという点を見ると、つまり江陵・南郡を指している。北に繋がる川の流れとは、江陵から麦城・当陽(長坂)・襄陽と到る水陸の交通路を指している。劉備も襄陽から南下する際に、この交通路を使い、途中の当陽で曹操軍に追いつかれた。つまり、この時点で魯粛は荊州全土の死守には固執していない。南郡こそが覇業論達成のための必須ポイントなのである。ただし、その前に江夏を孫呉が領有していないというのが大問題である。
  • 続きを読んでいこう。
    • 「今、劉表は死に、二人の息子は折り合いが悪く、家臣団も二派に分かれています。それに加えて劉備という英傑が身を寄せていますが、劉表は彼を十分に使う事が出来ませんでした。もし劉備が劉表の息子たちと協力して劉表勢力をまとめ上げる事ができるなら、彼らを手懐け同盟関係を結ぶのが良いでしょう。あるいは、もし彼らが協調できないのなら、それに対応して新しい計略を作り上げ、大事を成し遂げなくてはなりません。どうか私を弔問の使者として荊州に出向するようお命じ下さい。弔問と共に軍中の有力者をねぎらい、加えて劉備には劉表勢力をまとめあげ、心を一つにして曹操に対抗すべきだと説きます。劉備は喜んでこの言葉に従うでしょう。これがうまく行けば、覇業も可能となって参ります。急がなければ、曹操に先んじられる事となりましょう。」
    何度かこの部分は読んできたつもりなのだが、こうしてよく吟味してみると、この男、やはりとんでもない奴だ。言っている事が矛盾しているのである。まず先述の部分。魯粛は【南郡を押さえる事が天下覇業の必須ポイントである】としている。にも関わらず、南郡を曹操より先んじて落とすという思考にならない。5年もかけて江夏一つ落とせない、今の孫呉に南郡まで押さえる力なんぞ、ありゃしないと割り切っていやがる(汗)。
  • 魯粛の進言を要約?してみよう。
    • 「南郡は覇業のための重要ポイント。ここは是非とも領有しなくてはなりません。だが、孫呉はその前の段階の江夏すら落とせてない。なら、劉表勢力を劉備に纏めさせて曹操に対抗させましょう。我々は荊州のもう一つの鼎と同盟して曹操を荊州から追い出しましょう。南郡を取るのはそれからでも遅くはありません。もし、劉表勢力がまとまらないなら、別の計略が必要です。とりあえず、劉備に南郡を死守するように説得して来るので、弔問の使者という名目で荊州に行かせて下さい。」
    そういう事ではないか?孫呉単独では心許ないから、昨日まで戦っていた相手を南郡を曹操から守るための駒として使おうと言うのである。しかも、守らせておいて、ゆくゆくは南郡は摂取してしまう腹づもりである。この男のどこがお人好しなものか。こんなドラスティクな男は滅多にいない。
  • また、劉表が病死した時点で、荊州の鼎を劉備と暫定している。ここで思い出されるのが諸葛亮の隆中対策である。諸葛亮は劉備に対して「荊州を取るつもりはありますか?」と聞く所からスタートしている。現在、この諸葛亮の隆中対策は彼一人の独創ではなく、襄陽名士グループによる合作ではないか、という説が一般化している?と思う。つまり、魯粛もまたこの劉備待望論を情報として入手しており、分裂しつつある劉表勢力をまとめ上げるとしたら劉備しかいないと想定しているのである。財に物を言わせて人脈を作り上げた成果である。しかし状況が激変しているので、様々な可能性を想定せざるを得ず、もし劉表勢力がまとまらないなら、柔軟に対応するしかないでしょう・・・としている。
  • さて、この進言を聞いた孫権は、おそらく、魯粛が初めて覇業論を唱えたとき同様、非常に面食らったはずである。とにかく思考の常識を飛び越えている。だが、荊州制圧戦略が思ったよりうまく行かない以上、この男の計略に乗ってみるしかなかった。ほっとけば大事な南郡はいずれ曹操に奪われる。その前に江夏をなんとかせにゃならん。とりあえず、この突拍子もない男、色々しゃべりはしたが、【劉備に心を一つにして曹操に対抗すべきと説いてくるつもりらしい】という事と、【弔問に行きたいらしい】という事は理解した(汗)。確かに、この男はそう言って言葉を締めた。ならば行ってこいという事で、魯粛は荊州へと出向する。一方で周瑜は、魯粛とはまた違った視点で曹操の荊州侵攻を眺めていた。208年八月。まだまだ動乱の208年は終わりを告げない。また、魯粛の蠢動も一向に治まる様子を見せないのである。