【 誤算 】
  • 当主就任後、内部基盤を固める作業を中心としていた孫権であるが、203年から始まる一連の黄祖討伐から本格的な外征を開始する。黄祖を討伐すると言うことは、荊州方面に勢力を拡大していく基本方針を定めたという事であり、魯粛の覇業論の第一歩であった。
    • (注)孫策が死んだのが200年で、孫権が初の外征を行ったのが203年。これまた、喪に服する3年の規定に従っている。まあ、実際には孫呉の内部基盤が揺らいだ時期であり、喪に服するという事だけが理由とは思えないが、この3年喪に服する規定は当時はかなり重要だったような感じを受ける。
  • だが、この覇業論の第一歩である黄祖討伐・江夏制圧で孫呉は足止めを食らってしまう。203年の黄祖討伐は甘寧の逆撃に会い失敗。豫章の山越の活動が活発化した事もあり退却。翌年の204年には麻保に攻撃をかけるが、住民を移住させただけに留まる。曹操の方は204年には冀州を制圧。さらに青州・并州と軍を進め、207年にはなんと長城を越え烏丸を攻撃。着々と【山積みされた課題】を処理していた。一方、孫呉の方は208年にやっと黄祖を撃ち取り、夏口城を落とすが、なぜか江夏を勢力範囲に加える事なく柴桑に帰還。城を落としておきながら、支配を放棄するというのは通常考えられない事である。支配できなかった理由があるが、史書には記載されていないと見るべきだろう。
  • 黄祖討伐の記述を入念に見ていくと、
    • 麻保の砦を攻撃した・・という記載が何度か出てくる。(太史慈伝・周瑜伝・孫瑜伝・凌統伝等。山越と表記あり。)
    • 孫権伝に、同年、賀斉を遣って丹楊西部の黟県・歙県を討伐させ、新たに新都郡を作ったとある。
    • 甘寧は夏口城陥落後、当口で守備に当たったとある。当口は位置不明。集解に注があるが、断片的に見ても【当口或即当利口】とか、【当口必在夏口】とかあって諸説あるようだ。
    こうした点を見ると、夏口城は陥落させた物の、夏口の麻保や丹楊の山越賊の動きが活発化し、203年の黄祖討伐同様、退却したと見るべきかもしれない。また、夏口には土着豪族が存在し、それらの反抗を受けた可能性もある。土着豪族に取って孫呉は侵略者でしかない。いずれにしても統治に失敗、山越を抱える江東の事情もあり柴桑に退却した。それを受けて劉琦が江夏太守として夏口に再度駐屯したと見る事もできる。
  • つまり、魯粛の覇業論はいきなり第一歩で躓いた。曹操は山積する課題=華北の制圧・異民族問題などを次々に解決してしまい、逆に孫呉は荊州制圧のための第一歩であるはずの江夏制圧ができない。そして、激動の208年を迎える。七月、ついに曹操の荊州制圧軍が南下を開始する。さらに間の悪い事に翌八月、荊州防衛に関しては、魔がついているのではないか?と思えるほどに強かった劉表が病死する。すでに後継者を巡って家臣団が劉琮・劉琦の二派に分裂しており、もはや一つの鼎、荊州・劉表勢力は瓦解寸前であった。
  • 魯粛の覇業論は【長江流域を悉く押さえる】事が大前提である。長江の要害があってこそ鼎立可能なのであり、上流を曹操に押さえられれば、孫呉は攻められるまでもなく自己崩壊する。魯粛は曹操より先に荊州押さえる事を考えていた訳だから、いきなり正念場が訪れた。果たして、打開策はあるのか?波乱を予感させつつ、次回に続く(爆)。あー、なんか二流講談師みたいになってきた(泣)。