【 乱世を見る目 】
  • 第一話の整理から。
    • 魯家は東城の地方有力者であった。
    • 一方で官職的名声はなく、政界進出のための人脈はなかった。
    以上が、魯粛誕生前の魯家の状態である。さて、魯粛伝には魯粛が生まれるとすぐに父親は死去した・・とある。で、魯粛は祖母と暮らしていた。母親はどうしたんだ?という気がするが、詰まるところ、魯粛の父親が死んで以来、魯家の家業は母親が担い、魯粛は祖母の元で育てられた・・という事かも?当時の社会で父が死んだ後に母が家業の中心となるという事があり得るのか?という点は自信がないので、なんとも言いようがない。いずれにしても、魯粛は成人しても家業には携わらなかった。家業を継ぐなんて意識はまるでなかったのである。
    • 魯粛は、好んで人々に経済的援助をし、家業をうっちゃらかして、財をばらまき、田畑を売りに出して困窮している人々を救い、有能な人々と交友を結んだので、郷里の人々の心を掴んだ。
    と魯粛伝にある。文面を素直に読めば良い人だった・・としか読めないが、これはむしろ【立身出世】を目指していたという事を意味している。魯家は魯粛以前は大土地所有者、つまり豪族(地方有力者)であっても、政治とは関係を持っていなかった。だが、魯粛が成人した190年前後はすでに後漢末期であり、豪族は自己主張をしなければ、存続が難しい時期に来ていたと言える。そのための方策が官職を得る事である。官職を得て政治への関与が可能となれば、自己の権益を守る方策が出てくる。だが、問題は官職を得る方策で、この時代は人脈を拠り所として推挙をしてもらうくらいしか方法がない。魯粛がやった事はすなわちそれであり、魯家は魯粛の代に至って初めて、名士の仲間入りをした訳だ。元々、名士だった訳ではない。諸葛家にしても周家にしても、先祖に官職を得て活躍した人物がおり、生まれたときから名士であった訳だが、魯粛のように自己主張を行って名士の仲間入りをしたタイプというのは意外に少ない。本来、魯家の財力があるならば、魯粛以前の段階で名士の仲間入りをしてそうなモンだが、それがないという事は、魯家自体が新興勢力であった可能性もあるだろう。
  • 呉書の注によると、
    • 魯粛は風貌魁偉(立派な風貌)で、若くして大志を持ち、発想は奇抜。天下が乱れると、剣術・馬術・弓術を習い、若者を集めて兵法のまねごとをしたりもした
    とある。乱世を生きる気アリアリであった(笑)。特に若者を集めて・・・という部分なぞは私兵を持とうとしたとも読める。だが、魯粛が習った剣術・馬術・弓術は一定レベルには到達した物の、武官として秀逸・・というレベルには到らない。さらには兵法の面でも、その後の魯粛の戦績を見ると?マークである。後から魯粛が必要性を感じて習得しようとした分野は、役には立っただろうが、彼の本質ではなかった。彼の本質は、乱世を感じ取り先を読んで行動したという、先天的とすら思える部分、つまり【発想力】にある。しかも、その発想力は常識人には理解し得なかった。呉書の注にも、郷里の年配者たちから「魯家から気違いが生まれた。」と噂されたとあり、どうもこの頃から、年配者には決定的に嫌われるタイプだったようだ(笑)。孫呉政権に参入後も、張昭とは決定的に合わない。価値観がまるで異なるのである。もし、魯粛と同様の立場で、立身出世を目指したい若者がいたとする。当時の価値観と照らし合わせれば、人脈を結ぶのは良しとして、その後は名士に自分の清廉・孝行・忠義という部分を認めてもらい、自らの学を示す。そのために本を読むし、親孝行も欠かさない。礼節もわきまえる。それをツテに出世を目指すのである。この手の話は正史に掃いて捨てるほどあり、常套手段だ。しかし、魯粛は家業は手伝わない、軽薄な若者たちとつるんで戦争ごっこに現を抜かす、という有様で、そうした出世の常套手段を用いる気は一切なかったようだ。すでに魯粛の目は乱世を見ているのである。
  • こういう人材に目を付けるとしたら、それは目を付けた人間も乱世を見ているという事である。それは、当時、偶然にも孫策の江東制圧戦から一端、戦線を離れ袁術の元に来ていた周瑜、さらには、淮南の大勢力・袁術であった。