【 中護軍・周瑜 】
  • 孫策が、丹楊・呉・会稽の制圧をほぼ終え、廬江攻略に取りかかったのが199年の事である。この廬江攻略戦は
    • 廬江の劉勳を計略に乗せ、豫章郡上繚討伐に向かわせる。
    • 劉勳の留守を狙って、皖城を急襲。
    • 戻ってくる劉勲を彭沢で待ち伏せ攻撃。
    • 西塞山に立てこもる劉勳を討伐。
    • 沙羨で黄祖と対決。
    ここまでが一連の流れである。この一連の廬江攻略戦は、同時に豫章郡の制圧・黄祖討伐も兼ねており、丹楊攻略戦以来の大型軍事行動だった。この軍事行動に際し、周瑜は中護軍・江夏太守として参加している。
  • 中護軍というのは、正式には中軍・・つまり首都防衛軍の事を指すが、この場合はむしろ、中央軍・・つまり主力部隊を指していると思われる。要するに、この廬江攻略戦に際して、周瑜は主力部隊の長官の一人として参戦した訳だ。今までは袁術との関係があり、周瑜は後方支援・留守預かり・諜報活動などが主な任務であったが、この辺りから周瑜単独の行軍が見られるようになってくる。
    • (注)この辺りの記述は面白い。孫呉軍営というのがどの辺りから、独自行動を取るようになったのか?という指標になる。
      袁術旗下から独立した・・ように見えるが、正式に言うと独立はしていない。孫策が揚州牧であったなら、州運営に関して独立性を持てるのだが、劉表や劉焉と違い、ただの会稽太守である孫策は他郡の太守に対して命令権がない。だから、下にある黄祖討伐時の参加武将一覧に呉郡太守・朱治や丹陽太守・呉景の名前がないのだ。そう考えると丹陽太守を徐琨から呉景に交代した背景には、江夏攻略に徐琨の持つ兵力を使用したかったということもあるのかもしれない。
      話を戻す。とは言え、周瑜は春穀県令である。丹陽に属しており、本来、会稽太守の孫策がどうこうできる範疇を超えている。つまりこの時点で、ある程度の孫軍閥という概念は成立しているのだ。おそらく、江東に割拠する孫軍閥というグループ概念が出来上がったのは、丹陽太守・袁胤追放の時である。それまでは、どう転んでも袁術旗下の武将に過ぎない。そういう野心や構想はあったとしても、表面化はしていない。
      そして「中護軍」という概念が成立すること自体が、もはやただの会稽太守の範疇を超えているのである。そもそも会稽太守が荊州・江夏制圧の軍を起こす道理がない。朝廷(曹操)側の軍属(討逆将軍)として軍を起こし、その中央軍を周瑜が取り仕切ったということになる。しかし中・左・右の護軍を作ったとなると、ただの雑号将軍の権限を越えており、皇帝から重要な遠征の指揮を任された上級レベルの将軍府の軍容である。この「中・左・右の護軍」という組織は、孫呉政権に引き継がれるので、この辺りから孫呉軍閥という江東に割拠するグループが存在するということが、事実上認識されるようになってきたのではないかと思われる。
  • 江夏太守・・というのは、名前だけの官職である。赤壁後、孫権が徐州刺史となったのと同じ。実際、孫呉政権が江夏まで支配を広げるのは、赤壁まで待たなくてはならない。黄祖討伐の時の参加部将の名が孫策伝に出てくるが
    • 江夏太守・建威中朗将 周瑜
    • 桂陽太守・征虜中朗将 呂範
    • 零陵太守・蕩寇中朗将 程普
    • 行奉校尉 孫権
    • 先登校尉 韓当
    • 武鋒校尉 黄蓋
    とあり、太守を拝領したのが周瑜だけでないことが分かる。まっこれはどう考えても形だけだ。また、これを見れば周瑜・呂範・程普の三名が主力部隊である事から、中・左・右の護軍をそれぞれ賜ったのではないか?という気がしないでもない。にしても、程普・呂範を差し置いて周瑜が中護軍となっているのであるから、孫策の周瑜への信頼ぶりが分かろうというものである。
    • (注)孫賁伝で書いた通り。形式ではなく「本気で南荊州を支配しよう」とした。そのための了承を曹操から得て、ただの雑号将軍の分際で上級将軍のような軍制を作り、遠征軍を組織した。袁術旗下として切り取った丹陽・呉・会稽の時とは異なり、「孫軍閥というグループを確立させ、それをまとめ上げる」こと「南荊州を支配し、割拠する」ことを目的とした、なんともスケールの大きい行軍である。この頃の孫策の行軍と後の劉備の蜀入の行軍は、行動様式としてよく似ている。孫策が袁術旗下として切り取った丹陽・呉・会稽は劉備が赤壁後に獲得した南荊州四郡に当たり、孫策の江夏制圧の行軍は、劉備の蜀入の行軍と性格が酷似している。もし孫策の江夏討伐が成功していれば、曹操から最低でも揚州か荊州の刺史か牧の座は得られたのではないかと思われる。そうなると、孫策は南の巨大割拠勢力となり、三国時代の様式も大きく異なったはずだ。やはり、孫呉の野望を引き裂いたのは「黄祖」である。黄祖はもっと評価されていい。ラインハルトに対するヤンくらいに評価されてもよいw意味不明。
  • この廬江攻略戦では、周瑜は主力部隊として、皖城→西塞山→沙羨と軍を進め、いずれも勝利した。また、皖城では、例の絶世の美人姉妹・大喬・小喬を孫策と共に娶っている。曹丕の甄皇后争奪の件に類似しているので、おそらく、この二人は皖城を攻めるときから、喬姉妹を娶る事を目標の一つにしていたに違いない(笑)。絶対そうだ(羨)。
  • この一連の戦いは、情報・行軍・統率・計略いずれの面を見ても見事という他なく、孫策=総司令・周瑜=主力部隊統率という、孫策・周瑜コンビのベストパターンが実現したのが、この廬江攻略戦だった。だが、残念な事に、これ以後、孫策・周瑜のベストパターンでの行軍は二度と再現できなかったのである。