【 空白の時 】
  • 周瑜は206年に孫瑜の目付役として、麻と保の砦(山越の拠点)を叩いた。麻と保というのは、以前太史慈伝に出てきた麻保の砦の事で、場所は江夏。つまりこれは孫権伝に出てくる206年の黄祖討伐の事と思われる。この麻保討伐の後、周瑜は宮亭(豫章郡)に軍を留めたとあり、この辺りから周瑜の駐屯地は鄱陽湖周辺になってくる。また、黄祖が部将の鄧龍を遣って柴桑に侵入すると、周瑜はこれを壊滅させ鄧龍を生け捕りにして呉に送還したりしている。この頃の周瑜の役目は黄祖に対応する事だったようだ。
  • この頃、孫権は内部基盤を固める作業を中心にしており、外征自体が少ない事もあるが、孫策時代の分刻みの急変ぶりからすると、この頃の周瑜はずいぶんと時間がゆっくりと流れている感じがしないでもない。それに外征が少ないと言っても、李術の乱の平定や、黄祖討伐の軍は数度行われているはずなので、それに周瑜の名が出てこないのは不思議な印象を受ける。もし周瑜が精彩を欠いた時代があるとすれば、この孫策死後から数年の間の事だ。203年の黄祖討伐に周瑜が参加していないとは考えにくく、この時の敗戦は甘寧一人に勝利を奪われるという、いささか情けない敗戦である。また、孫権就任時の反乱鎮圧に際して、最も功績を挙げたのは誰か?というと、おそらく程普である。当時の軍部トップ3の三人のうち、【丹楊・呉・会稽の賊を討伐して回った】と記述があるのは程普だけで、周瑜・呂範いずれも討伐の記述がない。中央で軍を固める必要があったとても、この当時の周瑜の動きは遅いように見える。
    • (注)黄祖討伐について。黄祖は劉表の江夏方面司令官であり、孫呉が荊州方面に勢力を伸ばすためには、叩かねばならない相手だった。そのため孫策の黄祖討伐を皮切りに、孫権伝にも数度に渡り、黄祖を撃ったという記述が出てくる。
      • 199年の孫策による黄祖討伐(沙羨で黄祖軍を撃退するが江夏より撤退。)
      • 203年の孫権による黄祖討伐(甘寧が凌操を斬り敗退) 
      • 207年の黄祖討伐(民衆を捕虜にして帰還。おそらく孫瑜と周瑜が麻保の砦を叩いたというのがそう。)  
      • 208年の黄祖討伐(城を落としたと記述あり)
      しかし、この四度の黄祖討伐いずれも勝ち負けに関わらず、孫呉が江夏に勢力を伸ばす契機になっていない。赤壁の時の最前線は相変わらず柴桑。特に208年の黄祖討伐は、城を落としたにも関わらず、その後江夏を併呑しようとした形跡がなく、不思議な印象を受ける。孫策の豫章平定戦を見れば分かるのだが、もしその郡を併呑しようという意図がある場合、太守を追い出した後、その郡に有力部将を配して、治安回復及び防衛に努める必要がある。豫章の場合なぞはそうした措置が取られているのだが、江夏の場合は、その後江夏の何県に誰が配属されたとか、太守として誰を残したとか言った記述がない。つまり、城を落とした後、全軍帰還したのだ。
    • (注)以前書いた注が不完全なので、修正。なーんで「夏口城を落としたのに江夏を併呑しなかったのか?」これ、当時は「夏口城が落ちる」=「江夏郡を支配できる」と同列に考えていたのだが、そうじゃないかもしれません。江夏郡は長江南岸と北岸から構成されています。夏口城は揚州方面からの侵攻に対応する「前線基地」です。そこは確かに落としています。しかし208年には劉琦が江夏太守として赴任しています。それは前・太守であった黄祖が死去したからであるはずであり、だとすれば、夏口城が落ちた時点で「孫権の前線=夏口城」、「劉琦の駐屯地=江夏郡北岸」だったはずです。つまり普通に考えれば、江夏郡の長江北岸を劉表(劉琦)、南岸が孫権というように勢力分割されていたはずです。ところが、208年7月の曹操の荊州侵攻の時には、孫権は柴桑に拠点を置いており、なぜか劉琦が夏口にいます。城が落ちたのが春ですから、わずか数か月の間に「孫権自らが撤退したか」「夏口城を取り返されたか」したとしか解釈のしようがありません。
      まず「取り返された」可能性から。あり得ない話ではありません。そもそも荊州の有力豪族である黄祖の影響は大きく、そこに部外者の孫陣営が入ってきても統治に失敗するということは十分にあり得ます。単純に豫章から夏口までの補給路を断たれたら、撤退するしかないでしょう。また「城を取り返された」のなら、史書(呉書)はそれをオミットします。当然のことです。ただ、さすがに城を落としながら数か月で敗退というのは、ちょっと考えにくいようにも思えます。劉琦は病弱ですでに赤壁前後から病身だったと思われますし、あまりにもあっさりしすぎています。
      次に「撤退した」のだとしたら?それならふつうに考えれば「停戦合意」したからではないかと思います。同年の正月、曹操は玄武湖で水軍の訓練を始めます。討伐対象は劉表(場合によっては孫権)です。つまり曹操の動向が気になる状況で夏口城は落ちています。同年7月には曹操が荊州に侵攻します。その状態で孫呉とも戦うのは純粋戦略的に不利ですから、劉表からしたら孫呉とは停戦したいはずです。また孫権(魯粛)からすれば、曹操が荊州に向かったのなら、その場合は劉表に勝ってほしい(負けたら大変)はずで、停戦合意も十分にあり得ます。曹操臣従派(張昭ら)からしても、主(曹操)が荊州を攻めるなら、部下(孫権)は身を引くべきだと考えると思われます。下手にちょっかいだして、劉表を討伐するついでに、身をわきまえず荊州にまで出張っている孫権も殺っちまえ・・なんて流れになったら最悪です。また、停戦合意がなされているからこそ、魯粛が弔問に行くことが可能だったとも考えられます。
      それらの要因がミックスされているとも考えられます。「土着豪族の反抗により夏口城が孤立した」+「劉表からの停戦の申し入れ」+「曹操に臣従するなら引いた方が良い」=「夏口城からの撤退」かもしれません。で、境界線ギリギリの柴桑で情勢を見守る。当時、身の振り方をはっきり決めていない孫権らしい配置と言えます。
  • 208年の黄祖討伐では、周瑜は前部大督(先鋒部隊の司令官)として従軍した。この時の先鋒部隊は、呂蒙・凌統・董襲ら。周瑜は彼らを統率し勝利に導いたのである。