【 友亡き後 】
  • 孫策の後を継いで孫呉の棟梁となったのが孫権。しかし、孫策というカリスマを失った孫呉政権の動揺は激しく、数多くの反乱・離反が出る事となる。そんな中、周瑜は兵を引き連れて葬儀に駆けつけると、そのまま呉に留まって中護軍として、長史の張昭と共に、全ての事務を取り仕切った・・・と周瑜伝にはある。
  • 周瑜が中護軍に任じられたのは、一連の廬江・豫章討伐戦においてであり、その意味合いは首都防衛軍としてではなく、あくまでも遠征の主力部隊として・・という意味が強い。ここで再び、中護軍として・・という言葉が出てきたのは、意味があるだろう。つまり、今回の中護軍として・・と言うのは、全く正式な意味での【本拠防衛軍】という意味だ。周瑜はあくまでも軍属であり、内政事務を取り仕切るというのはちっょと考えられない。もしそうであるならば、文官としてしかるべき役職を得るべきだが、そういう記述はない。つまり、孫権就任時に内政を一手に取り仕切ったのは張昭である。では、周瑜はどういう立場で、孫権を支えたのか?
  • この時期、江東を離れようとしていた人物の一人に魯粛がいる。だが、周瑜は魯粛を説得し、孫権に目通りさせるのに成功している。もし魯粛が北に流出していたら大変な人材の損失だった。
  • また江表伝によると、曹操は202年に孫権の息子を人質として差し出すように要求してきた。判断に迷う孫権に対して、人質を送ってはならぬと進言し、それを止めさせたのも周瑜である。江表伝の記述は眉唾ものが多く、どうもこの逸話もどうも怪しげな雰囲気を持っているのだが、202年と言えば、確かに長子の孫登はすでに生まれており、孫輔の離反騒ぎが起きたり、虞翻や太史慈に曹操からラブレターが届いたりしていた頃で、人質要求はあり得ない話ではない。
  • 他にもしばらく後の記述になるが、「当時の孫権はただの将軍に過ぎず、臣下と主君の差も大差がなかったのだが、周瑜は率先して丁重な礼を取ったので、他の臣下たちもそれに習うようになっていった」・・とある。初期の孫権には、君主としての絶対優位は存在してなかったのだ。それを周瑜が君臣の差を明確にするようにしていったのである。このように、軍事・内政とはまた違った視点で、周瑜は孫権を支えていたと言える。
  • もう一つは、まさに中護軍としての役目、つまり軍部の統括である。この時点で周瑜・程普・呂範のトップ3の役職は、程普が丹楊都尉、呂範が都督(この場合の都督は将軍の補佐官)。中護軍の周瑜がトップであり、軍部の規律を正し、統括する役目はおそらく周瑜が担っている。演義に出てくる【内は張昭、外は周瑜に聞け】という孫策の言葉は、ある意味で初期の孫権政権の内情をよく代弁している言葉である。周瑜と張昭。この二名が孫権就任時の孫呉を支えていたのである。 
    • (注)もう少し整理。言いたいことは分からんでもないが、イマイチよく分からないw
      孫策が死去した時の官位は会稽太守・討逆将軍である。通常、将軍職というのは一代限りである。太守の場合は子孫に引き継がれるケースがある。よって、普通に考えれば孫権は会稽太守の後任ならあり得るが、将軍を引き継ぐことはない。ところが、周瑜はそんなことは百も承知の上で「中護軍」として孫権に拝礼しているのだ。これはどういうことか?というと、「孫権が引き継いだのは会稽太守の座だけではない。孫策在命中と同じように、孫軍閥の棟梁の座を引き継いだ」ということを内外に知らしめたということだ。だーから、周瑜が拝礼することで孫軍閥の動揺が沈静化したのである。張昭と周瑜がどういう立場で孫権を支えたかを簡単に言うと「張昭は会稽太守・孫権を支え、周瑜は孫軍閥棟梁・孫権を支えた」ということである。
      その後、曹操からも会稽太守・討虜将軍に任じられた孫権は、会稽ではなく呉郡呉県に入った。つまり「会稽太守」としてではなく「孫軍閥の棟梁」として行動したということである。また、呉郡呉県で事務処理を行ったこの時期に、呉の四姓(陸・顧・朱・張)との関係を構築したのではないかと思われる。