【 混乱の京城 】
- 前回がやたらと複雑だったので、もう一度整理する。ちなみに今回もやたらと複雑な話になる(汗)。
- 赤壁の戦いに勝利した事で孫呉が江夏を支配。
- 江陵攻略戦に孫権・劉備連合軍が勝利した事で、南郡を分割統治。
- 劉備が孫権を徐州刺史・車騎将軍代行に、劉琦を荊州刺史に上奏。これが受理される。
- 劉備が荊州南部四郡を攻略。(劉備に荊州南部四郡の支配権が生まれる?)
- 劉琦の病死を受けて、群臣に推される形で劉備が荊州牧となる。
- まず、京城での出来事が記載されている伝を列挙してみる。
- 【劉備伝本文】劉備は京城で孫権と会談し、親密な間柄となった。孫権は使者を送って、蜀を共に取ろうと呼びかけた。ある者は呉は荊州を超えて蜀を支配するのは不可能であるから受諾せよと言ったが、殷観は、下手をすれば、拠り所を失うから、呉には我々は動けないと言っておき、その後で行動を起こしましょう・・と進言した。
- 【劉備伝注・献帝春秋】孫権は蜀を共に取ろうと使者を遣わした。劉備は蜀を取る気はないと告げたが、孫権は無視して孫瑜に水軍を指揮させ夏口に駐屯させた。劉備は軍の通過を認めず、各将を布陣させた。それを見た孫権は孫瑜を帰還させた。
- 【龐統伝注・江表伝】劉備は龐統と会談した時、「君は周瑜の功曹だったが、周瑜はワシが京城に行った時、このまま劉備を呉に留めよと進言したらしいが本当か?」と聞いた。龐統が事実ですと答えると、「天下の知謀の士が考える事は同じだな。孔明はあの時行くなと言ったが、ワシは孫権は北に曹操の驚異を抱えているのでそれはないと思っていた。あれは万全の策ではなかった。」と言った。
- 【周瑜伝本文】劉備が京城にやってくると、周瑜は「劉備は梟雄で人の下にいつまでもいる者ではない。よって劉備はこのまま呉に留め、関羽張飛は私のような者が手足として使うべきです。もし劉備に土地を与えれば、龍になって天に昇りましょう。」と言った。
- 【周瑜伝本文】また、周瑜は京城にやってきて、蜀を奪う計画を進言した。孫権はこれに同意した。劉備が京城から帰還する時に送別会を開いたが、その時劉備は「周瑜は文武双方の才能を備え、万人に勝る英傑です。その器量から言って人の下にいつまでもいる人物ではありますまい。」と言った。
- 【魯粛伝】劉備が京城に来て、荊州の都督になりたいと申し出た時、魯粛だけが荊州を劉備に貸し与え、協力して曹操を退けるのが良いと進言した。曹操は孫権が土地を割いて劉備に貸し与えたと聞くと、持っていた筆を取り落とした。周瑜と甘寧は蜀を奪うように進言した。孫権がそのことについて劉備に相談すると、「蜀の劉璋は同族ゆえ、攻め取る気は毛頭ありません。」と答えた。
- 【魯粛伝注・漢晋春秋】呂範は劉備をこのまま呉に留めるよう進言した。魯粛は「曹操の脅威は大きい。よって荊州を劉備に貸し与え、曹操の敵を多くし、味方の軍勢を強力にするのが最上です。」と言った。
- 【呂範伝本文】劉備が京城に来ると、呂範はこのまま劉備を呉に留めよと進言した。
- 記述を繋げていく。劉備が京城に来たのは、【荊州の都督となるため(陳寿の本文)】である。これが唯一記載された劉備の京城訪問の理由だ。この場合の都督とは都督荊州諸軍事、つまり荊州の軍事権を得るために来ている。その前に劉備は荊州牧となっているのだから、つまる所、荊州牧としての実権を認めてほしいと依頼してきた訳だ。これが呉側の主張する所の【荊州借用】であり、劉備側の言うところの【自力で支配した土地】という部分である。土地の支配と軍事権の問題が別々になっている所にダークゾーンがある。
- (注)その後の魯粛・程普の配置を見ると、劉備に支配権が譲渡されたのは、江夏を除く荊州諸郡らしい。江夏はその後も孫呉の支配領域として存在している。
- 対して、呉将の反応は二種類に分かれる。
- 荊州譲渡反対派=周瑜・呂範・甘寧
- 荊州譲渡賛成派=魯粛
- 長くなったので、周瑜が劉備を呉に押し留め、蜀を奪うべきと進言した状況判断の理由は後述する。簡単に言うと、周瑜らは劉備の分離独立を認めるべきではないと主張した。対して、魯粛は劉備の独立を認め、その力を強力にする事で共に曹操に当たるべきと主張した。
- 孫権は赤壁の立役者二人の意見が分かれたので、非常に混乱したと思われる。最終的に孫権が下した結論は、劉備の分離独立を認める物だった。そして蜀に関しては、劉備との共同戦略による統治を目論んだ。だが、この孫権の決断は矛盾している。もし、劉備の荊州での軍事権を認める一方で蜀を分割統治するというのならば、どのように統治権を分割するつもりだったのか?この辺りの見通しがはなはだ稚拙であると言わざるを得ない。まさか飛び石のように領土を分割する訳にもいかないので、いずれ混乱が生じる。そのような状態で統治するのであれば、そもそも劉備が独立する意味がない。よって、劉備の独立を認めるのであれば、魯粛の方針が正しい。あくまで、同盟者の劉備に力を蓄える基盤を与え、劉備の蜀制圧を援助し、共に曹操に当たるべきだ。逆に蜀がほしいのであれば、劉備の独立は認めず、それで決裂すると言うのならば、劉備と戦ってその勢力を壊滅させるしかない。つまり、孫権は甚だ混乱した状態のまま、周瑜と魯粛の策の中庸策を取った。あるいは、孫権の結論は、いかなる結果になろうとも、周瑜と魯粛のどちらかの意見を無碍にするより、まだマシだ・・・という物だったかもしれない。また、後述するが、孫権から見て、周瑜の提案に危険な何かを感じ取り、蜀を取るのには賛同しつつも、劉備を呉に留め置くのを嫌ったのかもしれない。いずれにしても、劉備からすると、孫権の提案は現実性を欠いているので、適当にお茶を濁して、兎に角、荊州の事実上の支配権さえ得られれば、後はどうにでも整合性は付けられる・・・という事である。
- (注)この時の孫権の決断については、もう少し考えをまとめて後述します。現段階では結論を出し切れません。あしからず。
- 話を戻す。では周瑜。彼はこの時何を考え、何をなそうとしていたのか?それについて次回考察していく。
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