【 実録・江陵攻略戦 】
- 赤壁の戦い(通称として使用します。)に勝利した周瑜らは江陵(南郡)制圧に向かう。赤壁に勝利した事で江夏郡一帯は孫呉の支配する所となった。よってまずはその上流に当たる江陵を落とす事が先決となる。江夏→江陵と落とすことで、揚州・荊州の長江流域を全て支配する事となり、防衛上の観点からも江陵は是が非でも落とす必要があった。上流を曹操に支配されたままでは、江夏の安全もままならないのである。
- この江陵攻略戦は烏林から水陸両方から進軍したと注の呉録にある。赤壁の戦いでは何をしていたのか不明な劉備軍だが、この江陵攻略戦になると動きが見られるようになる。つまり、この陸路から進軍した軍に劉備軍がいる。逆に周瑜らは赤壁の時同様、水軍型編成であるから水路を遡る事になる。という事は、赤壁の戦いと違い、江陵攻略戦は孫権・劉備連合軍による戦いである。劉備は張飛隊を周瑜に同行させる代わりに兵を援助してもらったりしている。このような戦力交換を行う背景には、共同軍であるという事を強調させる意味もあるだろう。周瑜もこれに応じ、江陵は共同軍で攻める事となった。つまり、江陵攻略戦では、周瑜の戦略構想の中に劉備軍が入っているのである。これは、劉備一党の陸戦経験の豊富さ・土地勘が要因としてあるだろう。実際、江陵には曹仁・徐晃を始め、陳矯・李通・牛金と言った面々が残っており、食料の備蓄も多く、簡単に落ちる城ではなかった。前回も書いたが、周瑜は精密な情報と正確な分析を根底とする、極めて正道的な戦略家である。江陵は押さえなくてはならないが、赤壁の時のように、孫呉水軍単独で強行突破できるほど容易な戦いにはならない事を把握している。よって、劉備との協調の必要性が生まれてくるのである。劉備の方もここで戦果を上げないと、今後がおぼつかない事もあり、張飛を周瑜に同行させたり、関羽に曹仁の退路を断たせたりと積極的な行動を起こしている。斯くして、夏水の南岸に周瑜・北岸に曹仁という体制で対峙する。
- (注)夏水とは、長江から枝分かれする支流で、江陵で長江と別れ、夏口の辺りで合流している。呉録の注に劉備の言葉として「夏水から曹仁を攻めよう」とあり、つまり、烏林を水陸双方で出発した周瑜・劉備連合軍は、最終的にこの夏水と長江の合流地点辺りで合流し、おそらく夏水の南岸に周瑜・北岸に曹仁という体制で対峙した。(河を挟んで対峙したという記述が多数見られる。)よって江陵攻略戦は赤壁の時のような水上戦ではなく、渡河戦という性質を持っている。後に出てくる、甘寧の夷陵を先に落とす策は、夷陵から襄陽へと続く水路を制圧して、曹仁の退路を断つ事を目的としていたはずだ。劉備が北道に関羽を派遣したというのも、曹仁の退路を断つ作戦であり、周瑜の江陵攻略戦の戦略は、曹仁の退路を断ち、籠城戦に追い込むという物である。だが、曹仁は甘寧の策にも関羽の行動にも、しっかりと対応しており、曹仁がただの匹夫の猛将でない事が分かる部分である。
- 大局的な戦略構想は周瑜の分析で正しいのであるが、事が戦術レベルになると、周瑜は部下の進言を積極的に取り入れていた。赤壁の時と同様である。江陵攻略戦では、まず甘寧の「先に守りの薄い夷陵を落とすべき」という進言を取り入れ、甘寧に夷陵を攻めさせた。どうやら夷陵は空に近かったようで、甘寧は千人規模の小隊で夷陵を易々と手に入れる。
- 対する江陵に立て籠もる曹仁は戦術レベルでの猛者であった。拠点防御・拠点攻撃において、武勇・用兵双方で曹操軍でトップクラスの人材である。この辺り、曹操の人材配置はさすがと言った所だ。曹仁は甘寧が夷陵城を落としたと聞くと、これを放置せず、5、6OOOの中隊を送ってこれを包囲する。却って危機に陥った甘寧は、周瑜に救援の使者を送る。
- 甘寧の救援の使者を受けて、呂蒙は、本陣を凌統に任せて、主力で持って夷陵の救援に出向き、短期間で甘寧を救出、同時に敗退する曹仁軍の進路の要所に馬が通れないほどの障害物を置いておけば、曹仁軍は馬を捨てて逃亡せざるを得なくなるだろうと進言する。周瑜はこれを採用し、主力を夷陵に向かわせ、甘寧を救出、曹仁軍は呂蒙の言ったように馬を捨てて逃亡する。馬を獲るなど、些細な小細工・・と言った印象を受けるが、これはよく考えれば重要な事だった。なぜなら、周瑜らは赤壁での水軍編成のまま江陵攻略戦を開始しており、陸上戦に必要な馬の数が不足していたのだ。対して、曹仁ら中原の兵で怖いのは、騎馬隊であるから、敵の馬の数を減らし、味方の馬の数を増やすというのは、非常に大切な事なのである。
- (注)この頃、すでに呂蒙の戦術レベルでの才能を周瑜は高く評価していたようだ。周瑜は益州から投降して来た部将の兵を割いて、呂蒙の兵を増員しようとしたりしている。また、この甘寧救出作戦を見れば、本陣を薄くし、救出軍に主力を割くという、常識論的には奇策の範疇に入る進言をしている。つまり、周瑜に取って、呂蒙は戦術レベルでの柔軟性を補完しうる重要な位置を占める部将に成長しつつあった。
- 夷陵を制圧され、背後の危うくなった曹仁は対陣を諦め、籠城戦に突入する。前述したように、江陵には十分な食料の貯蓄があった。しかし、この時点で渡河作戦は成功し、周瑜は夏水を渡り、江陵城を包囲する。だが、ここでも曹仁がいかんなくしぶとさを発揮。危機に陥った牛金をほとんど単身で救出すると言う鬼神に近い猛勇ぶりを発揮して、士気を上げている。続いて、周瑜軍と曹仁軍の主力同士の部隊衝突が起きる。この部隊衝突で、周瑜は左鎖骨に矢を受け、指揮不能になるという危機にさらされる。これを知った曹仁は、一気に周瑜の陣に迫る。戦術レベルで戦略レベルの不利を覆すには、敵の司令官を殺すしかない。どっかのスペースオペラ小説に同じような事が書いてあったなぁー、と思っても気にしてはいけない(爆)。この場合は曹仁がヤンで周瑜がラインハルトである(うーん)。これを察知した周瑜は死力を振り絞り、自力で陣内を謁見する。それを見た曹仁は唯一の逆転のトライを決めるチャンスを失った事を知り、ついに江陵を退却、ここに江陵攻略戦は終了する。
- さて、総括。戦略レベルでの優位、つまり曹仁の退路を断って籠城戦に追い込めば、いくら江陵城の食料備蓄が十分であっても、補給を絶たれ援軍も見込めない(曹操は許に戻っている)となれば、どのように曹仁が戦術レベルで奮戦しても、最終的な勝利は周瑜にあったという点は動きようがない。それこそが、曹仁が周瑜健在を見て取るとあっさりと退却した理由である。大局的な観点から言って、周瑜の戦況分析力はさすがである。ただし、戦術レベルでは周瑜と曹仁はほとんど互角、あるいは周瑜は部下の能力も吸い上げている点を考えれば、曹仁の方にアドバンテージを与えても良いほどである。また、曹仁は周瑜を負傷に追い込み、唯一の逆転のチャンスを拾う寸前まで行った事を考えれば、曹仁の奮戦が目立つ戦いであった。また、負傷後の周瑜の行動は、丹楊攻略戦で見せた孫策の機転と酷似しており、自力で立ち上がるのも困難なほどの重体の中で、無意識に孫策の姿を追っていた印象も受けるのである。 ▲▼