【 才能の種 】
  • いよいよ激動の208年が迫る。詳細は孫権伝【荊州騒乱】あたりから続く赤壁の戦いの部分を見てほしい。ここでは、周瑜の動きを追っていく。
  • 曹操が玄武湖を作って水軍の訓練を始めたのが208年の正月の事である。これは明らかに南方制覇に向けての準備であり、討伐対象となりうる孫権・劉表陣営では、いよいよという感があったはずだ。当然、周瑜らはいざという時に備え、水軍の訓練を行う。場所は鄱陽湖。おそらく周瑜だけでなく、程普・呂範ら軍部の統率者たちは、そこに集結している。当時、孫権は呉に役所を置いていたようだが、この時期になると柴桑に官を集め、非常時に備える体制を取っている。もしかしたら208年の黄祖討伐の後、江夏に留まらず帰還したのは、こうした動きに備えるためだったかもしれない。
  • 曹操が荊州討伐の軍を動かしたのが七月。八月には劉表が死去、劉琮が後を継ぎ、荊州は降伏に傾き始める。その後、劉備と魯粛の蠢動についは、孫権伝【魯粛暴走】を参照してほしい。周瑜伝の記述は柴桑会議の場面から始まる。(孫権伝【柴桑会議】参照。)柴桑会議については、多くのサイトでその詳細が語られているが、ここでは周瑜の勝機分析についてもう一度見てみたい。
    • 曹操軍80万と言っても実際は、中原の兵15万に荊州の兵7万を加えた程度である。
    • 中原の兵15万はすでに長旅で疲れ果てており、荊州の兵は完全に曹操に心服した訳ではない。
    • そもそも中原の者は水戦に不慣れで、万全の状態であったとても勝てる。
    • 加えて、曹操には馬超・韓遂という外患を抱えている。
    • 今は冬で馬の馬草もなく、そういう状態で水郷地帯に踏み込めば必ず疫病が発生する
  • 赤壁の勝因は全てがここにあると言って過言ではなかろう。水軍に不慣れな中原の兵が長旅を経て水郷地帯に入り、疫病が発生したため、曹操軍は退却したのである。結果だけ後から知るのであれば、なんて事ない兵法の常識であるが、当時の状況で冷静に分析し、群臣を納得させるのは至難だった。それを周瑜はやってのけたのである。
  • よく、軍事的才能は天賦の物である・・と言われる。確かに孫堅や孫策のそれは天賦に近い物がある。孫堅は兎に角、部隊衝突で圧倒的な強さを見せるし、孫策は兵の運用が天才的だ。常人に発想し得ない運用をする。だが、周瑜のそれはいささか、種が異なる。周瑜の戦略の根底を支えるのは、情報だ。疫病が発生する可能性が高いとしても、発生しなければ意味がない。つまり、周瑜はすでに曹操軍内部に疫病が広まりつつあるという情報を得ていたと考えるのが筋だ。また周瑜は曹操軍の実際の兵力・その構成に至るまで周瑜は把握していた。だからこそ、感情的な抗戦論では、会議の流れを変えられなかった所を周瑜は変える事ができた。孫策と周瑜がタッグを組んで戦えば、相当に強いだろうという部分もそこにある。才能の種が違うため、互いの弱点を補完しあえるのだ。
  • こうして柴桑会議は徹底抗戦で結論が出る。周瑜は3万の兵で、柴桑から長江を昇っていく。目指す場所は夏口である。