【 丹陽太守交代の真相 】
- 196年頃の周瑜の役割というのは、切り取った丹楊東部の支配権を祖朗・太史慈・山越などから守り、その基盤を固める事にあった。同時に孫策は会稽の討伐に乗り出し、両郡をほぼ一年未満で制圧する。ただし、制圧と言っても、完全に支配した訳ではなく、要するに両郡の太守を追い払っただけではある。孫策が兎に角、素早く領土を広げる事に主眼を置いた理由は、次にやってくる袁術との決別の際に孫家の優位が保てる土地を多く稼いでおきたかったという点があるだろう。そして、その決別の時がいよいよ迫ってくる。袁術は周瑜の叔父である周尚に代えて従兄弟の袁胤を丹楊の太守として送り込んできたのである。これに対して周瑜は、袁術の命令を受け入れ、叔父の周尚と共に寿春に戻る事になる。
- この丹楊太守交代の時期は正史にもはっきりと書かれていない。出てくるのは周瑜伝及び、徐琨伝・孫輔伝の三つになる。この三つの記述からはっきりとわかることは、
- 周瑜が孫策の袁術に対する決別を受けて、袁術の元を離れるのが198年。
- 袁胤を武力で追い払った徐琨はそのまま丹楊太守となるが、さほど時間をおかず呉景が江東に戻ってきたので丹楊で人心を得ていた呉景を丹楊太守とした。
- 袁胤追放事件の後、袁術は祖朗に印綬を渡し孫策を攻撃させようとした。そのため、孫策の祖朗討伐が起きた。
- 対して、この太守交代に周瑜らが素直に従った背景はなんであろうか?一つは、主君が袁術であるのだから従うのが筋であるという筋論であろうが、もう一つは、孫策の判断を仰げる状態ではなかったのではないか?と思われる。つまり、この丹楊太守交代事件は孫策が会稽に遠征している時に行われている可能性が高い。もし孫策が丹楊に戻ってきていたのであるならば、孫策がこの太守交代を嬉々として受け入れるはずもなく、周瑜が袁術の元に戻る事もなかったはずだ。しかし、実際には孫策は遠く会稽で戦っており、周瑜は独断での判断を求められたと思われる。
- もし、この時点で周瑜・周尚が太守交代を拒否すれば、孫家の袁術への反意は明かとなり、下手をすれば呉・会稽・丹楊の三カ所で許貢・王朗・袁術の三人を相手に戦わなくてはならなくなる可能性もあった。周瑜の決断は決して間違っていなかったと言えるだろう。こうしてしばらくの間、周瑜は袁術の元にいる事となる。 ▲▼